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はじめに

宗教の本質 (見えざるものの本質)

 

令和2年の今日、まさに、新型コロナウィルスの爆発的感染の脅威に曝されているさなか、私ども人類に一体何が問われているのだろうか?

 

 これまで、多様な法縁により巡り会うことができた宗教論の中で、いくつか気になるものがあり、それらの見解について、考察を加えながら、昨今の人類が直面している問題を自分なりに見極めることができればと考えてきている。

 

 こうした問題を考えるに、小生は、仏教系の宗教学を専攻した経緯もあって、特定の宗教にこだわらず、自由に、気になる宗教的見解に触れることが多かった。

 

 いずれも「超越したものの世界を論じているもの」ばかりでありま、到底、蒙昧な小生の思議の及ぶものではないが、直感的に、何か「見えざる世界からの示唆」があるような気がしてならない。

 

 宗教哲学的考察の一部であり、取り上げるに相応しいものとはいえないが、何か間に合わないと急かされているような気がして、急遽、人類の探求の一具となりうるものを取り上げて、考察を加えていきたい。

 

 但し、私見としては検討を域を出でていないものであることをご了承賜りたい。


『求道者の全一なる帰依』

宗教の本質 (見えざるものの本質)

『求道者の全一なる帰依』(龍雲)
 ここでは、シュリー・オーロビンドの『聖なる母』取り上げるが、覚者大聖オーロビンドの教学を云々できるものを小生は一切持ち合わせていないことをお断りしておく。そのような者が、畏れを知らず、不遜を顧みず、ここに、大聖を取り上げたるは、不可思議なるおんみちびきによるとしか言いようがなく、また、この『聖なる母』に邂逅したがため、やむにやまれぬ、懇願にも似た、探究の愚童心に火がついたとしか言いようがない。
 とはいえ、その至らざるを、はじめにお詫びしておきたい。

 

 さて、ここで述べられている『求道者の全一なる帰依』(龍雲)は、自身がこれまで見据えてきた「求道と信仰の根幹」を激しく揺さぶるものがあり、自身の今の無知蒙昧性を激しく打ち据えるものであり、無視することのできない、真摯なひびきであった。

 

 よって、ここでは、オーロビンドをブッダ親説に絡めて、真理探究の礎とせんことを願うものである。

 

 まず、その探求の核心として、まさしく、『求道者の全一なる帰依』(龍雲)が、説かれているのである。

 

文献『梵我一如への方法論的集大成』シュリ・オーロビンド著。金谷熊雄訳。永田文昌堂発行1962年6月1日。

 

『聖なる母』から

 

 1

 

  下方から呼ぶ不断にしてゆるがぬ切願、上方から応えたもうこよなき恩恵―このふたつの力が不ニ一体となつて、はじめてわれらが努めてやまないかの目標、大いなる雖事がここに成就する。

 

 といえ、こよなき恩恵は、光明と真理を縁として注がれ、虚偽と無知の諸縁から生ずるものには注がれない。恩恵が虚偽のもとめに応じてこたえねばならぬとすれば、それは恩恵みずからの目的をすてることになろう。
 このふたつの力は、光明と真理を縁とし、ただこれを縁としてこよなき力用が天くだるのである。上方から天くだり、下方から開くこのふしぎな力がわが身体にうつる自然を御し、その障りを払い去る。

 

 帰依は全一にして真摯でなければならない。ひたすら浄くこよなき力に全托することである。われに下りくる真理をひたすら、しかもたえず望むことである。また地上を風靡する分別心と活力とからだのはたらきと、その様相を拒けることである。
 帰依は全一でなければならないわが存在のすべてを把握するもの、ただの知的呼応ではない、高き知性の承認だけではない、ただ内なる活力の服従、ただ内なる身体の威庄を感ずるだけではない。

 

 存在者のひとすみにも、いなその端くれにも、一物の保留をゆるさない。疑惑と困惑と言いのがれのかげにかくれて、逆らうもの、拒むものをひとかけらも保留することも許さない。

 

 たとえ、わが存在の一部がついえ去るも、他の一分をとどめ、我情に執らわれ、我性を縁とするかぎり、そのつど、われみずから恩恵を拒けていることになる。帰依と、捨身にかくれ、我意の固執を掩い、活力のおもむくところを蔽し、これを真の切願に替え、あるいは、固執と切願を混淆しながら、その責めを聖なる母の力(シャークティ)に転嫁し、わが心身の改変、転化を希って、聖なる恩恵をいのるも無用である。

 

 わが一面を真理に向け、他の一面を常に嫌うべきものの窓口に向け、恩恵の宿りたまえと願つても無駄である。宮居に神鎖まりたもうを願えば、まずその宮居をきよめなければならない。

 

 聖なる力わがうちにいりきたり、常に真理のあらわれきたるも、聖なる力に背向けて、ひとたび拒けた虚偽に、ふたたび呼びかけるごときは、その挫折の責めみずからの詐りこころの負うべきであり、これ帰依の全一性を欠けることにあって、恩恵にあるのではない。

 

 真理をもとめ、真理に呼びかけながら、依然うちなるものが虚偽と無知と汚染をえらび、いさぎよくこれを捨て去らねば、常に身は攻撃にさらされ、恩恵はしりぞく。まず内なる虚偽と蒙昧を見究め、これをねばり強く捨て去らねばならない。このとき、はじめて聖なる力に呼びかけ、転身を希うことができる。

 

 真理と虚偽、光明と暗闇、掃投と我情は、神殿中に共在すると思い違ってはならない。転身はこれ捨身であり、捨身はこれに逆ろう一切を捨離することである。

 

 聖なる力は、わが願いをかなう。至高なるものの施設に心満たざるものがあっても、わが願いは、かなえられるように施設されている、という謬見を去れ、帰依もし真実にして全一なれば、そのときこそ一切の願事はかなえられる。

 

 また聖なる力、われを帰投せしむ、というような虚偽を捨て去れ。至高なるものは帰投を求めたまうも、強いて帰投せしめんとはしない。いついかなるときも改変することのない転身成就の暁にいたるまで思いのまま自由に、聖なるもの拒みしりぞけ、よしみずからよしとして、業果に苦しむとも。人は自業の果てを想起できょう。帰投は、みずから帰投することであって、他からしいておしつけるものではない。

 

 帰依は生々発刺としたものであって、惰性的ないし自動的機械のごときものでない。惰性的受動性は、ともすれば真の帰依と混同されるが、これからは真なるもの、力強きものは生れでない。これを曖昧にし、汚染にまかすのは(身体的物理的)自然の惰性的受動性に因る。法悦と力を与える帰依は、聖なる力用の活動に、輝かしい真理の使徒に、朦昧と虚偽に挑む内なる兵士に、そして忠実な神のしもべの素純さに求められる。

 

 これこそ、真の態度あり、帰依の心を内持するものは、失望に挫けず信仰を持ち続け、試練を経て、至高の勝利と偉大なる転身に至る。

 

 

(龍雲) 
 ●「切願と恩恵」ということは、この地上にはこびる苦悩と恐怖からの救済と神の無限の愛の恩恵の加護を求める祈りの本質をあらわす。これを仏教では加持護念、あるいは加持祈祷と表現している。真言密教ではこれを「為我功徳力、如来加持力、及以法界力、願成安楽刹、普供養而住」といい、自身と如来と法界(自然界)との加持護念の調和がはかられることを祈願する。仏教における誓願と慈悲の関係にあたる。

 

●「全一」にして「全托」
 全一とは分断が無いこと。2のない1としての全なる一者。分断とは自他の境界を設ける我の働き。しかるに、あらゆるものは、普遍から局所化した一個の全として出現。ミクロの粒子にしろ、マクロの無数の大宇宙にしろ、すべては「一者」としての統合性を保持しているがゆえに、現象化が起きている。この全一性は存在のすべてに透徹しているもの。局所化した個々が、この全一性を見失い、自我に収縮し、固着し、執着し孤立、孤独化することを分断という。すべてに通徹する全一性を見失うことが分断であるならば、先ず、全一性を見失わせる、自己中心性のあるがままの実態を自己凝視しなければならない。
 孤立する者同士がいかに徒党を組み互いに依存しようとも、所詮、孤立・分断の種を宿しており、やがて、更に、深い分断を引き起こす。
 孤立をもたらし、蒙昧な、自己中心性、欺瞞性、狡猾性、怠惰、搾取、傲慢、依存による腐心、機械的に停滞しきった所業など、数限りない自己のあるがままの姿を凝視観察すること。この自己凝視による観察と気づきが、我の虚妄性に終止符を打ち、隠されていた真の全一性が自ずと現れる。
 局所化されたものが全一性に気づき全一性のままに生きることをこそ「全托」といえるのではないか。ゆえに、「おのれを無にする」とか、「おのれを空にする」というあり方は、「無でないおのれを無にする」とか、「空でないおのれを空にする」という、そこに、ダメな者からましな者へ意志働いており、これは、たとえそのような境地を得たとしても、無でも、空でもなく、まして全托でもなく、自己欺瞞に陥っていることに気づけるだろうか。
 この世に生を得たものの、なにより大切なことは、「局所化されたものの中に現前する全一性の覚醒」にあるだろう。
 なぜなら、そもそも、全一性に分断はなく、全一性から出現している局所性にもそもそも分断はないのである。
 局所化に求められているものがあるとすれば、分断や固着、孤立ではなく、全一なる大宇宙、大自然会における個々の生命の全一なる自立、独居にほかならないのであろう。
即ち、局所が分断されるということは、全世界が分断されるといっても過言ではなく、故に、局所化されたものの覚醒が必要なのであろう。
 局所性が全一性と全く調和し、その中で独自性を発揮していることが実は全托なのではないだろうか。全托は、なにも局所性を放棄することではないし、まして、局所から全一へと移行する動きそのものは欺瞞に行き着く。
 局所が全一でない限り、分断された局所、即ち、自我が残るのである。この自我を如何に全一に近づけようとしても、自我を元にするかぎり、自我を離れない。自我という全一ならざる局所の分断がある限り、全一と局所は分離したままである。如何に巧妙に全一性を標榜しようとも、分断化した局所性に神性を見ようとも、分断である自我がある限り欺瞞に行き着く。
 分断のない局所。そこに透徹した全一性がある。故に、局所性の分断に気づくのは全一性であり、分断をもたらすものへの気づきが全一性なのである。
 したがって、分断をもたらすものの気づきのないところに全一性はなく、全托もない。全一性と全托は局所自身の気づきに依るのである。
 局所性のないところに気づきはなく、気づきがなければ分断があり、全一性は顕れない。  
したがって、前述の「為我功徳力、如来加持力、及以法界力、願成安楽刹、普供養而住」の三力加持は全一性への気づき、ひたすらなる自己凝視、内観による気づきを示すこととなる。三力加持の文言を読み上げたところで、ひたすら神や如来を念じてみたところで、内観による自我の気づき即ち如実知自心がなければ、虚妄に至るしかないことは自明の理なのではないだろうか。

 

 

 口先だけの懺悔の文や悔い改めや宗教的権威による裁きは、そもそも欺瞞であることは、誰でもわかることである。そのような欺瞞性は神や仏のなし給うところには非ず。分断した局所性の迷妄にすぎない。その迷妄に気づくことこそが、悔い改めの本質であり、真の自己変革をもたらすことは、動かしがたい事実である。

 

  さて、この観点から、オーロビンドの示唆をふまえて、自分自身をありのままに観察すると、どうなるであろうか?

 

●虚偽と無知の諸縁に依存している。

 

 ●地上を風靡する分別心と活力とからだのはたらきと、
  その様相を実体視し、囚われている。

 

 ●疑惑と困惑と言いのがれのかげにかくれて、真理に逆らい、拒む。

 

 ●我情に執らわれ、我性を縁とし、みずから恩恵を拒ける。

 

 ●帰依と、捨身にかくれ、我意の固執を掩い、活力のおもむくところを蔽し、
これを真の切願にすり替え、あるいは、固執と切願を混淆し、わが心身の改変、
転化を希う自己欺瞞者である。

 

●常に嫌うべきものの窓口に向け、恩恵の宿りたまえと願つて聖なる力に背向けて、
拒けるべき虚偽に、繰り返し呼びかけて信仰を捧げたつもりでいる。
帰依の全一性を欠く、自己欺瞞の最たるものである。

 

●真理に呼びかけながら、依然うちなるものが虚偽と無知と汚染のままである。

 

●聖なる力によって、わが願いは、かなえられるように施設されている、
という傲慢な謬見を懐く。

 

●聖なる力われを帰投せしむと、自身に蓋をし、他力全托の虚偽に陥っている。

 

●帰依にせよ、祈るにせよ、惰性的ないし自動的機械のごとき繰り返しに堕して、
眠り呆けている。

 

※これら内なる虚偽と蒙昧を見究め、これをねばり強く捨て去るには、あるがままの自己凝視すなわち内観に依る自覚が必要である。あるがままを観察し、凝視することで、心は清浄となり、このとき、はじめて聖なる力に呼応し、転身する。
 「如実知自心」とは、自身の蒙昧と虚偽に挑む内なる自己観察力にあるのではないだろうか。

 

 さて、このページの最後に、再び『クリシュナムルテイの瞑想録』J.クリスナムルティ著 大野純一訳 平川出版のインドにおける講話の一節を引用しておきたい。

 

 というのも、ラーマクリクリシュナやオーロビンドの深い神との合一という古来からの伝統を継承する宗教における体験や敬虔なる帰依の本質は、同様に、今日、日本における仏教特に真言密教の源流に通ずるものでり、われわれにとって、決して無縁な境地ではないでないこと。しかし、その偉大なる聖者の前に、ややもすると、偉大なるものとの同一化をはかるあまり、信仰や宗教上の錯覚を起こし、自己欺瞞に陥るのが現実であることを忘れてはならないのだろう。クリシュナムルティの視点は、ブッダのように、見えざる神からの視線ではなく、実にひとりひとりの人間の視点に立って、本不生の覚醒を促している。
 ブッダ親説やKの指摘が、単に伝統の否定であるならば、ここで取り上げることもなかったろう。
 偉大なる聖者や教師、大師たちの教説で、何よりも問われているのは、ひとりひとりの探求の眼差しではないだろうか。
 眠っていてはいけない。目を覚ましなさい!と。
 「真理は決して過去にはない。過去の真理は記憶の死灰である。なぜならば、記憶は時間の中にあり、昨日の死灰の中には何の真理もないからである。真理は現に生きたものであって、時間の領域にはない。」

 

 ところで主張とは明らかにそれがシャンカラであれ現代の神学者であれ、いずれ想像力に豊んだ精神の編み出した理論に他ならない。あなたは理論を体得し、まさにしかり、と言うことはできるであろうが、それはちょうどカトリックの世界に生まれ育ち、その制約を受けた者がキリストの幻像を見るのと同じである。明らかにそのような幻像は彼自身の制約条件からくる投影に他ならず、同様に、クリシュナの伝統の中で育った者はその文化を基盤とした経験をし、幻像を見るのである。したがって経験は何ら物事の真実を証すものではない。自らの見た幻像をクリシュナやキリストとみなすのは、結局のところ条件づけられた知識を反映しているのであって、それは経験を通じて強められた空想の所産であり、神話でこそあれ何ら真実ではなく、全く無意味なものである。
一体に人はなぜ理論を求め、なぜ信念に固執するのであろう。この果てしない信念の主張の背後には日々の生活、悲嘆、死、あるいは砂をかむような生の無意味性に対する不安や恐怖が潜んでいるのではなかろうか。
あらわな現実を前にして、あなたは理論を考案する。そしてその理論は、いよいよ精妙さを増し深みを帯びるにつれて重みを加えていき、数百、数千年にわたるプロパガンダを経るとその理論は必然的、かつは愚かなことに〈真理〉として確立されるに至るのである。

 

 しかし、もしもあなたがいかなる教義も仮定しなければ、そのとき、あなたはあるがままの現実と対峙する。
〈あるがままの現実〉とは思考であり、快楽であり、悲嘆であり、そして死の恐怖である。競争や貪欲、野心や力への欲望、追求に満ちた日常生活の構造を理解するとき、あなたは理論や救世主、導師といったものの愚劣さを悟り、あなたの悲嘆や、思考が作りあげてきた全構造に豁然として終止符を打つことであろう。そのような構造に貫入し、それを理解することが瞑想である。瞑想によってあなたは、この世が迷妄ではなく、人間が他者との関係のうちに構築してきた恐ろしい現実であることに気づくであろう。あなたの悟らなければならないことは、組織宗教や宗教団体における儀式をはじめとする諸々の付帯物を背景にしたようなヴェーダやウパニシャッドの理論ではなく、赤裸々な現実なのである。

 

 人が恐怖や羨望、悲しみに突き動かされることなく、自由であるとき、そのときはじめて精神は安らかで静謐である。そのときはじめて精神は日々の生活のうちに別々に真理を悟り、さらにはすべての知覚作用のかなたに飛翔できる。そのとき見る者と見られるものという二元性は終焉する。
 けれども、これらすべてのかなたに、現実の混乱や闘争、虚栄や絶望と関わらない、始めも終わりもない流れ、精神がついにとらえられない不可測の運動がある。

 


最後の書

この正月は例年にない大雪が続き、寺もすっかり雪に埋もれていたのであるが、突然、ある檀家さんから、「自分のお墓に氷の現象が顕れている」というお知らせを受けた。
 1月22日早朝のこと。早速、そのお墓を確認したが、確かにはっきりと出現していた。ほかの場所にも出現していないかどうかと、法圓寺と歓喜寺の境内とお墓をざっと調べたが、氷の聖像が顕れていたのはこの墓のみであった。

 

 もちろん、法圓寺境内では以前から度々氷の聖像が出現していた「つくばい」を確認したのだが、この冬の大雪と本堂屋根からの落雪で全く埋まってしまっていたので確認できない。

 

 正直のところ、この冬は雪も多く、氷の聖像は出現するとしても大雪が溶けるまでは見られないだろうとたかをくくっていた。それに、毎年現れるとは限らないない。

 

 故に、この日のある檀家さんからお墓に氷の聖像が現われているというお知らせには、さすがに驚いてしまった。
 大雪で、お墓も大概は雪に埋もれていたのだが、この方は、それでも毎日、欠かさず墓参をしておられる方だった。






 この写真のように、一見、「不動明王の剣」のようである。
しかも、このお墓には、平成30年の冬にも同様に「不動明王の剣」が出現していた。
 ここで不思議な因果を感じたのはこのお墓には「阿遮院何某」というお戒名が刻まれている。この「阿遮院」の由来は、あの法圓寺のつくばいに氷の聖像で出現した「アルナチャーラ」すなわち「アシャラノーダ」のことで、漢訳で「不動明王」という。信心深い方々であったので、氷の聖像「アルナチャーラ山」にちなんだお戒名であったが、まさか、その方のお墓に氷の聖像が出現するとは考えも及ばなかった。
 このとき(平成30年)は、ほかにも、何軒かの方のお墓にも不思議な氷の聖像が出現していた。

 

 今回はこの場所だけであった。

 

 (たまたま出現した氷による自然現象にすぎない)
そうであればよいのだが・・・・・・

 

 しかし、これまで、ホームページ上でも、何度かご紹介せざるを得なかったように、法圓寺小生の近辺では、平成20年以来、不可思議な形状をした氷の聖像が度々出現している。しかも、その出現の前後には、必ず、「地球規模の重大異変や事変が起きている」こと重なっており、単なる偶然だけでは片付けられない見えざる世界からの、何かがはたらき、何事かを暗示しているような気がしてならないのである。

 

 とはいえ、小生の浅はかな推量でもって、これらの現象を云々できるものでないだろう。 

 

 ゆえに、このお知らせを受けてはいたが、今年は、大雪の中、法務や雑事に追われる、ただ、安閑としたまま時間だけが過ぎていた。

 

 だが、本当は、この氷の聖像を見て、非常に危惧することがあった。
 妙に気になるのは、今回、お墓に出現した氷の聖像は、前に出現した「不動明王の剣」というより「平和を象徴する鳩」のようであることだった。しかも、薄氷の氷上に映るその姿は、まさしく、鳩そのものである。

 

 「鳩は平和の象徴」である。

 

 ということは、もしかすると、いま、世界は、逆に、「平和」がいちじるし
く脅かされるという危うい状態にあるのであろうか?
 逆に「戦争」を暗示しているのだろうか?
 人類の愚かさが再び戦争に巻き込しかねない。そういった危機感が見えざる世界にあるのだろうか?

 

 小生が、そういう懸念を抱くのは、かつて、昭和51年頃、ある不思議な感受性を持った恩師から、ほんのわずかの時間ではあったがでは、病身を押して必死に語り聞かせくださった不思議な話を思い出すからでる。

 

 「地球人類の物質界に偏った意識と行為の乱れが、今後、地球上に大きな天変地異が引き起こすことになる。最大の問題はこれまでもそうだったように、間違った宗教やイデオロギー、民族闘争などや権力による搾取や欺瞞性にある。地球にも意識があるのであり、その中の一部でしかない人類の意識が自己中心的覇権
争いを重ね、欺瞞と搾取を繰り返し、しかも、搾取される側の悲劇はますます増大し、これがきっかけで、おろかにも核戦争のボタン押しかねない。押してしまったならばもう取り返しはきかなくなる。これまでの戦争とはわけが違う状況にんる。これをナットか引き留めねばならないのだが、人間社会は愚かにもますます危険ね状況を生み出しつつる。
 じつは、この危機的状況を回避すべく、意識的に連動している地球も、また、見えざる潜象の世界にある如来や大天使たちが、いま、必至に対策を講じている。非常に真剣である。
 人類の意識が乱れることで異常気象や大地震、飢饉や疫病、はたまた様々な戦争がおこるのだ。こうした人類の誤った方向は地球という魂の修行場が破壊されてしまうのだ。それは萬霊にとって地獄の塗炭の苦しみに陥ることになるのだよ。」と。
 その話を聞いていたのは、そのときは私だけではあった。そして、この恩師はこの話をしてまもなく他界された。

 

 それから46年過ぎた令和4年になって、この恩師から聞かされた内容はますます真実味を帯びてきているように思えてならない。

 

 かの恩師が語ったように、この現象界は愚かなことに戦争のボタンを押すものがいて大惨事になりかねないのであろうか?
 まさか、そこまで人類は愚かではないであろう。必ず落としどころを見つけるに違いないのではないか。
 と思っていると、恩師は私の心を見透かし、「いいかい、よくききなさい。これまで人類はいったい何をなしてきたというのであろうか?釈迦やイエスの本当の教
えはいかされているのであろうか?彼らの教訓の真実を見失い、エゴイズムの処世に翻弄されるばかりで、とうとう、人類は、神や大義や正義の名の下に、平気で自他を殺すという愚か者だ。これを忘れてはならない。いかに、如来や仏陀が潜象界よりこの現象界に警鐘を鳴らしたとしても、この現象界の責任者はこの現象界に今生きているものたちなのだ。今生きているものたちがどう行動するかにかかっているのだ。この世界に住むものに全てが任されている。それゆえ、この世界では狂気に走るものがあれば、たちまち連鎖的に戦争は起こる。
 つまり、地獄を選ぶか極楽を選ぶかはひとえに今ここに生きるわれわれ自身の心と行動にかかっているのだ。ゆえに、人類ひとりびとりが地獄の沙汰となるような狂気の意識を悔い改めるべく軌道修正し、意識の変革を起こさねばならない。このままでは、かけがえのない魂の修行の場を破壊してしまいかねないのだ。それゆえ、大天使たちは必至である。私は潜象界に帰って、人々の魂の奥から心をこじ開け警
鐘を鳴らし、人々の意識を直し、その変容を促さねばならなくなるのだだろう。」
こう話して、この数日後、恩師は息を引き取り他界された。その時おそばにいた小生には忘れがたい話である。

 

 ところで、仮に、潜象の世界から氷の聖像が現れているとするならば、この鳩のようなものは何を示しているのだろう。
 この不思議な氷の聖像に対する危惧感も相まって、1月28日初不動護摩はここ2年ほど修してきた「聖観音仕立ての不動護摩法」ではなく、「不動明王仕立ての不動護摩法」に切り替え、大日・弥陀・薬師・聖観音・弁財天・不動明王を勧請して不動護摩を修法した。

 

 が、あろうことか、1月30日早朝、今度は、全く予測もしていないところに氷の聖像が出現!したのである。

 

 

 本堂の正面の階段脇に墓参用のお花をちょっとおけるようにおいてあったプラスチック製の黒い花桶鉢の一つに、上記写真のように、彼の「三角四面体」が複数出現していたのである。
 例によってすぐほかのところを探してみたが、やはりここだけであった。しかも、いつもの「つくばい」はまだ雪に埋もれたままであった。

 

 ということは、今回は、まるで、「大雪で皆覆われてしまっていて、氷の現象を出して気づかせようにも現象を起こしようもない。しかし、ことは重大な局面にある。安閑としていてはならないのだ!なんとしても気づかせねばならない。そのため、再び三角四面体を示すべく、まるで手当たり次第に可能な場所を見つけ、おまえの身近なところに現象を示しているのだ!」といわんばかりもののにさえ感じる。

 

 とはいえ、元々、凡庸で、愚鈍極まりない小生のところにそのような現象をお示しいただいても、「全くの無力」。どうしようもないのが現実である。

 

否、それでも、さすがに、「これは、見えざる世界では、われわれ人類にかなり危惧を抱いているのではないか?三角四面体マカバがの天地・自然・宇宙の森羅万象をコントロールせずにはおれないという非常事態が差し迫っている」とでもいうのであろうか?と思わざるを得ないのも確かであった。

 

 この現象を見て、小生には、皆目、見当がつかない。まして、本当にそのような意味でこのような現象が必要だというのであれば、何も小生のようなぼんくらな誰も注目もしていないもののところに現象を出すより、世界に多大な影響力を持つ有能な大指導者たちのところに出現してしかるべきであろうに・・・・・・。

 

 そう思って、凡庸なる小生が誇大妄想に駆られて騒ぐことのほどもはないのだろうと自分に言い聞かせていた。

 

 それでも、こうして現象が身近に頻繁に示されのは、何か訳があってのことであろうかと、自問せずにはおれず、いずれにしても自分のできることは戦争回避のためにひたすら修法するだけである。

 

 修法といえば、真言の修法中、密教の法具である五鈷金剛杵から「潜象と現象は一体である天地の創造秘儀」が込められていることを感じ取ってから久しい。 五鈷杵は、単にインドの武器から密教の法具に転化したなどという小さなものではなく、これは「潜象と現象の三角四面体が流動し回転している天地創造の原理であり、その芯に、不生の仏心が全一なる宇宙の偏在性と多次元なる局所性の核心となって構成している正反マカバの三角四面体のはたらきを如実に
示してる。これがこの五鈷杵の本当の意味であるに違いない。」

 

 修法しながら、遍照金剛空海大師は一体どのような五鈷杵を手されておられたのだろうか?。ふと、そういう思いがわき上がった。調べてみると、遍照金剛空海大師が請来された法具が東寺伝わり、国宝となっている。その写真を見て、まさしく驚愕したのである!

 


(請来型五鈷杵)

 

 弘法大師が宮中の真言院で修法なされて以来、今日まで続く「後七日御修法」という世界平和と安寧を祈祷する真言宗十八本山の長老猊下が修法される真言密教最高位の修法において、大導師が初めて手に取ることを許される密教法具であるので、この法具を手にできる阿闍梨は極めて希である。しかも、たとえ、何代にもわたって法統を受け継いできた真言の大阿闍梨といえども大師御請来の法具を手にできる機会は全くないのが現実である。

 

 ところが、この大師請来の国宝の法具をよくよく観ていると、まさしく、あの氷の三角四面体によって導かれたマカバの構造を余すことなく形状化しているものであることに気づいた。
 もちろん、五鈷杵をこのように解釈するのはほかにはない。小生の妄見、謬見に過ぎない。とはいえ、それこそ愚の骨頂と言われるのだが、マカバと五鈷杵とトーラスは同質のことと直感している。

 

 まず、請来五鈷杵を手にして大法を修するすることは小生にとってはあと何億万回生まれ変わったとしても叶わないことである。

 

 しかし、いま、世界は非常事態にあるというのに、自らこの祈祷を行えないというなら、あと何百万回生まれ変わったとしても、無能のままでしかない。

 

 


 

 数日前、こうした中、まんじりともせず、夜中を過ごし、早朝、暗いうちに、本堂を開けて、東の空を見ると、松の葉の間に輝く細い三日月が掛かっていた、そのやや下方の東の空に明けの明星がキラキラと輝いていた。
 それは凛として澄み切った空であった。

 

 おそばに遍照金剛空海弘法大師がおられる!
 するとその存在のようなものはこう語りかけてきた。
「確かに、おまえは限りなく小さい。覚りもなく、無明の強欲の風にさらされ、愚か者のままである。まさにおまえが言うまでも無く無能極まりないのも事実だ。そして、まもなく、はかなく消え失せるものでもある。」
(・・・・・・・仰せの通りです・・・・・・・・・・)
 しばらく黙っていると、その存在は、
(それでも、こうして、いつも、おそばにいてくさっておられる・・・)
 そのような思いがしてきた。

 

 あの銀色に輝く細い月は五鈷杵、あの明星は大師である。

 

 2月3日における節分護摩祈祷は、このような思いもあって、不肖ながら、大師請来型の五鈷杵を頂いて、遍照金剛空海弘法大師に願い出て、世界の安寧のご祈祷を潜象・現象含めてお導き賜るよう修法させていただくしかない。

 

 この現象界は無明。その煩悩の雲を取り除けるのは神のみ。
 にもかかわらず神の名のもとに戦争を起こす人間の浅ましさを悔い改めないかぎりいかなる神理も無明である。彼らは神を見ず愚かな人間を見て相争う。
 自己をあるがままにみる観法のみが、ブッダ親説本不生なる神と不生の仏心たる自心を如実に知ることができる。

 

 そうして、小生に ある不思議な書物が、いま、ここに与えられた。
読み人知らずの『不可知の雲』。
 死にふちにたつものへの最後の魂の救済の書なのかもしれない。 




 

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