平和の祈り

カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット メロー ホルハアレツ ケヴォドー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

法坐にはいる前に

 

はじめに

 

神にとどけ平和への祈り 

 

もろもろの想いに攻撃されながらも、不可知の雲のほうへさしのべられた小さき魂の愛

 

この不可知の雲という書にふれて

 

小生の心は打ち震えるばかりであった。

 

 この書は聖ボナベントーラ、エックハルト、十字架のヨハネとならぶ中世神秘主義の代表的傑作とされている。75章にわたるその内容は、キリスト教の否定神学、すなわち、ブッダ親説に通ずる内容であることに気づく。
 死のふちにたつものへの最後の魂の救済の書なのかもしれない。 

 

 しかし、この書に
 熱望する愛の鋭き投槍を以て
厚き不可知の雲を射よ
 光輝に満ちた輝ける聖闇の世界と
人間性の知解の限界を超えた霊的絶対者たる神との完き合一のために
 聖寵のマントラをかかげよ

 

 とある。そのマントラとは、なにか?

 

 「神」「愛」のように短い音節をマントラにようにとなえよとしかなく、マントラそのものは記されていなかった。

 

 「神」「愛」たしかに、そうかも知れないが、それでは、これまでも言い古されている。

 

何かあるなら示し給え。そう祈ると、側にあった『エノクの鍵』に手が触れ、バサリと机から落ちて、開かれたページに、ヘブライ語の祈り文が示された。

 

 そこで、確かめるべく初めてヘブライ語の祈祷書を調べて見る。確かに 旧約聖書イザヤ六章三節にこの祈りの言葉が記されていた。

 

 

 ブライ語ののことは皆目わからない。しかし、あまりにも奇遇であった。
そこで、ヘブライ語辞典やヘブライ聖書対訳シリーズを根拠にこのエノクの鍵にあった祈りの文を調べて見た。
『エノクの鍵』にあるものは正確な引用であった。たまたまとはいえ、天啓のマントラであろう。
先ず書写してみる。

 

 

 

 これも、天与の修法として日々修法している『紅玻璃秘法』に、このヘブライ語の祈りの讃呪を加えている。

 

 かの、普賢金剛サッタの『般若理趣経』に後世加えられた合殺「ビルシャナブツ」の咒にこのヘブライ語の祈りの讃咒を加えている。なぜなら実に深いところで響応するからである。

 

 プーチンの戦争を止めるには人類はその能力にかなりの制約があり、世界が巻き込まれかねない大戦争が一触即発の状況にある。

 

 これを止めるのは、不可知のから毘盧遮那如来すなわち主なる神のちからに依るしかない。とはいえ、ブッダは、人類の自己変革によるしかないと指摘されている。

 

 武力による理不尽さ。果たして、人類はこの『暴力性』を変革するであろうか超えうるであろうか?

 

 無明なるものなるなるが故に、概知のものと未知のものへの妄想の狭間に揺れているのが、君だ!

 

ブッダの指摘は小生には辛辣きわまりないが、不思議に、確かに、事実はその通りであることに否定はない。

 

 令和23年大震災以降、法圓寺と歓喜寺を舞台にして、小生は、未知なるものからのメッセージを感受していると妄想し、概知のものをも巻き込んで、その妄想の裏付けだと称して、氷の現象を通じて未知のものの意識を把握しようともがいてきた。
 確かに、現象界は実に不可測的に大地震・異常気象・疫病・戦争が起こり混迷の度を増している。
 もし、未知なるものからのメッセージ性があるとすれば、果たして、小生にそれを感受し人々に伝えるだけのものがあるのであろうか?
 小生は明らかに無明なるものなるなるが故に、概知のものと未知のものへの妄想の狭間に揺れながら、なおかつ愚かにも、何かあるはずだと、「観法という次第」を組み立ててきた。
 伝統性からは「お前のものは戯言にすぎない」と片付けられよう。かたやブッダからも全くのナンセンスと片付けられるであろう。

 

 要するに、自分を含めて、誰も、この探求の真実性を認めるものは無いかもしれない。
 「キミは何に導かれているというのか?所詮アクタモクタに過ぎない。」
 事実、小生はどうあがいても無能に過ぎない。
 とはいえ、「おひとりおひとりの不生の佛心にたむけて」という『観想法』を一般用に仕立て、また、それを機に自身の最後の行法ととし「観法による自己凝視」とうい紅玻璃阿弥陀法と十八道次第をベースにし、今回の天与のイザヤ書の「偈頌」を盛り込んだ『観想法』がある。

 

 それにしても、ブッダは手厳しい!

 

 まるで、現代の問題の只中にある小生の戯言をブッダは全て見透かされ、小生の幾多の生涯をかけてもなおブッダの足下に及ばぬ。
 そもそも、小生は愚の骨頂ということだろう。 
 この指摘の前に実に爽やかであるのが不思議でならない。

 

ブッダはかく言う
 「人間の精神は己れの周囲の文化、伝統、経済状態、そしてとりわけ周囲の宗教的プロパガンダによって重く制約され条件づけられている。独裁者や国家の専制に対しては、精神は奴隷になるまいとして激しく抵抗するというのに、教会やモスク、あるいはごく最近の、最も当世風な精神医学上のドグマ、定説と聞くと、唯々諾々として受け入れてしまうのである。精神は途方もなく救いのない悲惨を目のあたりにして、賢げな顔で新しい聖霊、新しいアートマンを案出し、それらをたちどころに崇拝の対象と化してしまうのである。
 この世にかくも恐るべき荒廃をもたらした精神は、根本的に己れ自身を恐れている。日増しに物質主義的様相を濃くしつつある科学、それがもたらしつつあるもの、そしてますます拡大しつつある精神への支配と圧迫、そうしたものに気づいて精神は新たな哲学を創出しはじめ、昨日までの諸諸の哲学にかわって新たな理論が生み出される。にもかかわらず、人間の抱えている基本的な問題は依然として未解決のままである。
 戦争、対立、そして手のつけられないような利己主義に満ちた混乱のただなかに、死という一大事が横たわっている。古い昔から最近のものに至るまで、宗教はこの死という事柄に対する出来合いの答えとなるようなある種のドグマ、希望あるいは信念を受容させるように人間を制約し、条件づけてきた。けれども死は、思考や理知をもってしては答えられない事柄である。それは厳然たる事実であり、決して避けて通ったりはできないのである。
 死とは何かを知るためには、人は死ななければならない。しかしそれこそは明らかに人があえてなしえないことである。なぜならば、彼は己れの知っているあらゆるもの、自分に最も身近な奥底に根ざした希望や幻像といったものに対して死ぬことを恐れているからである。
 実際には明日などはないというのに、人は現下の生と将来の死との間に数多の明日を並べ立てる。人はこの時間のすき間に、恐怖と不安におののきながら、しかも絶えず死という避けがたいものに目を向けつつ暮らしている。それについて口にしようとすらせず、自分の知っているあらゆるもので墓場を飾り立てて、その事実から目をそらそうとしているのである。
 特殊なかたちの知識のみならずあらゆるかたちの知識、すなわち己れの知っているあらゆるものに対して死ぬこと、それが死である。未来、すなわち死を招き入れて今日全体を包みこむこと、それがすなわち全的に死ぬことである。そのときには生と死には何の間隙もなく、そのとき死は生であり、生は死である。
 疑いもなく、そうしたことは人の望むところではない。けれども人は絶えず新たなものを求めている。片手には常に古いものを抱えながら、もう一方の手を未知の方に差し伸べて新たなものを模索しているのである。それゆえ私と他人、見る者と見られるもの、事実と理想の姿との間に絶えず二元性が生まれ、葛藤をもたらすのである。
 このような混乱は、既知なるものに終止符が打たれたときにはじめて、きれいさっぱりと消えてなくなる。このように終焉することが死である。死は観念や表象ではなく、恐ろしい現実であって、昨日に根ざした今日の物事にすがりついたり、希望の象徴を崇拝してみたところで、人は死から逃れることはできないであろう。
 人は死に対して死ななければならない。そのときはじめて天真らんまんさが生まれ、そのときにこそ永遠の新しさが姿を現わすのである。 愛は常に新たであり、ひとたび記憶されるやそれは姿を消してしまうのである。」

 

 要するに、ありのままの事実のほか何も無い!そこからだ!妄想や幻影からは何も生まれない!

 

  ところで、これとは別に、
 イザヤ第6章3節にはどのようなことが書かれてあるのであろうか。門外漢の私は、その内容に触れて、戦慄が走った。 聖書の文脈がわからないので理解に苦しむところであるのだが、その描写には、いまのウクライナの惨状が描かれているとしか思えないヶ所がある。イザヤ第6章3節をみて戦慄が走る!

 

 『イザヤ書』第 6 章 3節
1ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、
3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」
4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。
5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
9 主は言われた、「あなたは行って、この民にこう言いなさい、『あなたがたはくりかえし聞くがよい、しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい、しかしわかってはならない』と。
10 あなたはこの民の心を鈍くし、その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟り、悔い改めていやされることのないためである」。
11 そこで、わたしは言った、「主よ、いつまでですか」。主は言われた、「町々は荒れすたれて、住む者もなく、家には人かげもなく、国は全く荒れ地となり、
12 人々は主によって遠くへ移され、荒れはてた所が国の中に多くなる時まで、こうなっている。
13 その中に十分の一の残る者があっても、これもまた焼き滅ぼされる。テレビンの木またはかしの木が切り倒されるとき、その切り株が残るように」。聖なる種族はその切り株である。

 

 イザヤ書が示す深い意味は聖書を知らない小生には到底計り知れないところがある。そもそも善と悪の戦いとはいえ戦いは暴力でしかない。ではなぜ、いまこれを示されたのか?
 忘却の雲の下に繰り広げられ現象界と不可知の雲の下に繰り広げられる神々の世界に繰り広げられる欺瞞に満ちた搾取と暴力が止まなければ光りはなく無明があるばかりであるというのであろうか?

 

 「カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット メロー ホルハアレツ ケヴォドー」のヒビキは
 不可知の雲を貫き通す神の愛が神々の世界地上の世界に真の安らぎをもたらす気づきの光りであること願わざるを得ない。

 

聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな

 

主なる神よ 

 

地球全体が神の栄光に満ちますように

 

 

 しかし、残念ながら、世界は、ウクライナに軍事侵攻するプーチンの戦争を止められなかった。

 

 小生は、無力を感じながら、3月16日、ロシアのプーチンが、あらゆる規範を覆し、欺瞞に満ちたプロバガンダによる最悪の戦争を仕掛ける最中、最も凄惨で非人道的破壊攻撃を受け壊滅的非常事態にあるウクライナのゼレンスキー大統領が決死の覚悟でアメリカ議会にむけて講演するのをまのあたりにした後、床に就き、静かに、突然、神の導きにより与えられたこのヘブライ語のマントラを唱え、戦争の停止を祈ろうとしていた。
 なんと!唱えた途端、23:36 突然、グラグラときて、全てが崩れ落ちるかと思われるほどの震度六強の地震に見舞われた。停電し、真っ暗闇。あちこちで救急車や消防車のサイレンの音が鳴り響く。必死に見回れば、寺の大きな灯油タンクg倒れ漏れだしている。石灯籠や石塔・・・、町内は石倉やブロック塀、古い木造の建物は全壊状態。全壊した寺もあります。家中散乱状態のなかこのような被害に気づいたのは明け方漸く電気が付いてからであった。賽の河原状態。揺れた瞬間状況は察知されるから、火事や怪我がなかったのが幸いであった。少しづつ片付けていくしかない。
 しかし、触れてはいけない祈りに触れてしまったという畏れは全く無い。むしろ、かえって、この祈りを唱えなければならないという思いは強かった。

 

 

 聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 主なる神よ 地球全体が神の栄光に満ちますように
 は 不可知の雲からの神の恩寵である。

 

一刻も早い戦争終結と平和のため 常時 繰り返し唱えざるを得ない。

 

何故か、密教の修法中に この、カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット メロー ホルハアレツ ケヴォドーが 繰り返し響き、理趣経の念仏ビルシャナブツ・ビルシャナブツと響応してくるのである。


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