龍雲 心の通信 1

観自在菩薩の瞑想

瞑想は世俗からの逃避ではない。それは孤立した自己閉鎖的な活動ではなく、まさに、世界とそのあり 方を理解することにある。 ありのままの社会は衣食住以外には与えるところは少なく、その快楽はしば しば大きな悲嘆を伴っている。

 

瞑想は(あるがままに観察することで)、そのような世界を豁然として離れ去る。

 

ゆえに、人は全的に世界を観察するものでなければならない。そのときこの世は意味を帯び、天と地
は その本来の美を不断に開示する。

 

 全的に世界を観察するの慈悲と愛には快楽の影を宿すことはない。そしてこの瞑想こそは、緊張や矛盾、葛藤、自己満足の追求、力への渇望などの恣意的な我欲から生まれたも のではない、すべての行為の源泉である本不生そのものとなる。


失われつつあるもの

20年ほど前、豊山派の御遠忌法要の伶人として雅楽を奏楽すべく、週二回、三ヶ月間の特訓のため、福島
から東京に通ったことがあった。
僧侶達だけでの奏楽を目指し、当時、宮内庁の楽長東儀和太郎先生の下での特訓であった。
 特訓は台東区根岸にあるお寺でおこなわれていた。この辺りは震災や戦災でも焼け落ちなかったらしく、独
特の雰囲気があるところである。
 山手線の鶯谷駅を下の方に降りて、林立するビル街を素通りし、大通りを横切りしばらく行くと、狭い辻に
ぶつかる。
そこからの細い路地は寺の門前で長屋が続く。
ここに踏み入るとゴーゴーとした都会の喧噪は突然ぱたりと止み、全くの静寂さが漂う。
路地を挟んで古い家屋が軒を連ねところ狭しと並んでいる。
どの家の前にも草花が植え込まれ、道行く者を楽しませてくれる。
家々の戸は開け放たれ、夕餉の支度やら団欒の声や、念仏のタクの音などが響いてきて、穏やかな実に懐かし
い場所である。
 後ろから、夕暮れの中、豆腐屋がプープーと通り越し、魚屋の屋台がガタガタと通る。
すると、あちらこちらの家から声がかかる。
「おや、魚やさん。久しぶりだね。」「あい、まいど。」
「しばらく顔も見なかっが、どうしてたのさー。」「いやね、うっかり風邪ひいちまってさ。」
「そうかい。そりゃ大変だったねー。」と家々からてんでに人が現れてきて、魚をさばく中ひとしきり賑わて

る。
 それを横目に見ながら自分も小さな食堂に入った。
他に客はなく、ばあさんがひとりだけだった。
「カレーください。」「あいよ。」
食堂というより自分の家みたなものだ。ぼんやりとしていると、ばたばたと若い兄さんが駆け込んできて、な
にやら町内のことを大声で話し、すぐさま帰ろうとした。
「しんちゃん、悪いがそこのお客さんに、お茶と新聞出しておくれよ。」「はいよーっ。」
と気安く出してくれて風邪のごとく去った。
 食事が済み、路地を歩いていると、ちょうど前をミニスカートをはいた、ちりちりパーマの派手な若い娘が
歩いる。
(やはりこんなところにもなー)と思っていると、これまた、あちこちの家から声がかかる。
「おや、あいちゃんお帰り。」「今日は早かったね。」「うん。」
この界隈ではごく当たり前ののことなのだろうか。店先で天ぷらを揚げているおばさんが
「あいちゃん。ちょうど天ぷら揚ったとこだ。おばあさんにもってっておやり。」と袋に包み、それをにっこ
り「ありがとう。」と受け取る。
 寺の門前に着くと、こんどは、なんと!紙芝居が現れた。ドンドン太鼓の音に子供達がわらわらと集まって
きた。
 寺の庫裡は古い木造の二階で、そこの大広間で稽古をする。
とろとろに磨かれた階段をぎしぎし上がる。まだ、だれも来ていない。
戸を開け放ち、しばし縁にもたれ、外を眺めていた。
見通しがよく、向島辺りの小さな家々が見える。明かりが灯りはじめた。
どこからろうか、三味線の音がする。小唄もかすかだが聞こえる。
ときおり電車も通る。黄昏の沈黙が辺りをすっかり包み込んだ。
ここが都心であるとはまことに不思議である。
 田舎ほどこうしたものは残っていないように思う。なぜだろう。
貧しいからなのだろうか。それとも画一化されたうわべだけ新しいものに溺れてしまったからだろうか。
何か大事なものが失われつつあると思っていると、坊さん達が集まってきた。雅楽の稽古が始まる。


新しい芽

法圓寺には昭和19年から20年にかけて集団疎開している児童達の映像の記録が残されている。東京中野区の
野方国民学校の児童達が長野県や福島県の桑折町や飯坂町に疎開していた。当時、無住であった法圓寺には1
年生から6年生までの男女児童達が多く集められていた。大空襲を避け、親元を離れ、互いに身を寄せあって
けなげに生活している様子が撮影されている。これは引率の先生が写したものだ。毎日の食事は極めて乏し
く、すいとん、ジャガイモの混ぜご飯、サツマイモやビスケット、大根の葉のみそ汁など少量ずつ分け合って
食べていた。ひどいときにはおかゆの中に豆が4、5粒とかカボチャが3切れであった。蚤や虱に悩まされ、
時々薬風呂に入っている。寒い中、みんな、裸足で、落ち穂拾いやら薪を背負って運んだり、天突き体操やら
手旗信号訓練など、日々規則正しい生活が維持されていた。警戒警報に怯えながらも、誰もがいい子で立派な
小国民になって帰るのだと、励まし合っている。夜、遠くで聞こえる汽車の音に家に帰りたいと思う気持ちを
抑え必死に頑張っている。小さな女の子達の親からいただいたお人形をしっかり抱いて寝ている姿がいじらし
い。しかし、映像を通して見る子ども達の姿は、実は意外にも、明るくたくましいものである。機敏ではつら
つとして力強さに溢れていた。終戦後生まれの私には、この時代の子ども達のたくましさがかえって驚きであ
った。とはいえ、親からの手紙には、B29の爆撃機に体当たりし、きりもみ状態で落ちていく蚊のような戦闘
機 の様子が描かれ、いのちを悼む悲しみの思いと、いのちがけで護ってくださる人たちの恩を忘れず頑張れと
励 ましている。それはあまりにも悲惨な戦争という現実のさなかであった。「こんなにひどい大空襲を受けて
も なお平気でお庭の木は芽を出していますよ。学校の桜も満開ですよ。」と疎開先の子ども達を励ましている
親 の心には、なんとしても生き残ってほしと願う必死の思いが込められていて、子ども達も必死でそれに応え
よ うとしていた。
 さて、話は変わるが、新潟県中越地震の災害はかなりひどく、被災者の方達の一日も早い復興祈らざるを得
ない。そんな中で、「この地震でおとなたちはおろおろするばかりであるが、その中で、意外に、子ども達は
たくましかった。めげるどころか、何とかしようと、けなげにも動きだし、おとなを励ましている。その光景
を見て、この国はまだまだ捨てたものじゃないと思った。」という話を聞いたが、同感である。いまの日本は
ちょうど幹が空洞化し、根腐れで倒れかかった古い巨木のようなものだ。枝葉を思い切っておろしてみるが、
果たして、根に力をつけられるか、それと枯らしてしまうか瀬戸際だという。日本が破綻する危機は戦争以来
だろう。結局、朽ち木はドサッと倒れるしかないのだろうか。砂上の楼閣は外の風が吹き荒れれば崩れさる。
そんな厳しい時代にあって、この国に果たして新しい芽を生み出す力を宿しているのだろうか。歯止めのかか
らぬ少子化にあるが、子どもは、いつの時代にも「国の宝」であり「世界の宝」である「新しい種子」であ
り、「新しい芽」である。その子ども達が、如何にたくましく創造力に溢れた人間として育ち、どの世界にあ
っても自立できる者なるかはと、彼らの土壌であるわれわれ自身の自己変革と、善い種子を育む者となれるこ
とにかかっているのではないだろうか。


人はみな菩薩であるというのに・・・・

平成17年5月6日(土)午後7時から10時半法圓寺本堂並びに客殿 にて

 

 この地球を機縁とするすべての霊性に向けて

 

『人はみな菩薩であるというのに・・・・』     

 

 

一、はじめに

 

 この春はことのほか花々が美しく一斉に開いて、待っていた甲斐があった。その花も今ではすっかり散っ て、木々の若葉が心地よい風に戯れ、輝いている。大自然界は再生を繰り返しながら、全く新しいいのちを創 造し続けている。
 悲惨な事故はわれわれがいつも死と隣り合わせであることを突きつけてくる。事故の犠牲になったものも、 事故を起こしてしまったものも、あまりに痛ましく、その悲しみと苦しみは筆舌に尽くしがたいものがある。
 自然災害や人為的災害によってわれわれはいつでもあっけなくいのちを失いかねない。この問題に直面する たびに、いったい、いのちとは何であるのか、生きるということはどういうことなのか、否応なしに見つめざ るを得ない。

 

二、個人的な業報(むくい)観は誤りである

 

 この物質界に形成される私自身は宇宙の業(カルマ)の所産である。大宇宙の中にあって、唯一無二の 「私」ではあるが、しかし、あらゆる宇宙の営みとカルマの所産なるがゆえに、大宇宙体のカルマの法則(原因と結果の法則)に従わざるを得ない。まして、物質的三次元の世界に生存する限り、誰しも、その物質的生 存の条件(カルマ)を背負わねばならない。さらに、われわれは宿業という先祖の業や前世のカルマを否応なしに背負っている。
 しかし、ここで大事なことは、物質界におけるカルマであろうと、先祖から継承する遺伝子的カルマであろ
うと、前世からの魂上のカルマであろうと、それらは個人を通して現れてはいるが、もともとは人類全体が背
負っているカルマであり、それを個々の新たな生命が背負っているということで、個人に対する恣意的なカル
マではないということである。言い換えれば、個人個人のカルマは人類全体のカルマであり、全人類のカルマ
は、その出現したカルマの条件に従い個々人に作用するということである。
 これは、かな重要なことで、カルマは単純に個人の業報(むくい)として表れるものではないということで
ある。つまり、自分の人生上の様々な困難や苦しみ、悲嘆や不運な問題は、単に個人的な魂の前世からの因果
でそうなったのではないのである。
よく霊能者や祈祷師まがいの人が、そういったことを指摘し、それを真に受けている人も多いが、それは大き
な間違いである。彼らは自分の神のお告げや権威の名の下に、カルマの問題を悪業として個人化することによ
って、人類全体の問題を個人化・差別化してしまう大きな間違いを犯している。まさに、それは超能力願望の
潜在化された権力主義の誤った解釈に他ならない。また、個人の恐怖心がそのような解釈を真に受ける背景に
あるのであるが、これらは何ら真実ではない。

 

 

三、カルマとは何か

 

 では、カルマの問題とは何んであろうか。繰り返すが、宇宙の所産であるカルマが個人に作用しているとは
いえ、個人というものによってカルマが定められたものではない。紙面の都合上、いきなり飛躍して申し訳な
いが、まず、個人の本源は大宇宙であり、神であり、法身の大日如来である。その神が自ら展開している大宇
宙の営みの中で、神自らが作り出したカルマの浄化のために人類を含めあらゆる生命体を出現させているので
ある。人類は神が大宇宙のカルマとして出現させた大宇宙の進化のプロセスであり、人類は今ようやく、自我
に目覚めつつも、その自我の形勢そのものがそのカルマの条件付けによって形勢されたものであるため、内的
自覚はいまだ貧弱であり、人類全体が真我を自覚するまでには至らず、あくたもくた同然のカルマに翻弄され
ているのである。
 では、われわれ自身に影響し働きかけるカルマとはいったい何であろうか。
遺伝子情報は肉体的先祖のカルマの情報をよく示す。また、われわれが生活する土地や社会、国家や民俗など
は、環境上のカルマであり、地球を含む太陽系の惑星の配置上のカルマなどさまざまなカルマがある。カルマ
とはいわば大宇宙が顕現し存在する条件付けである。さらには、物質界を超えた魂や霊性上のカルマ。特に、
魂や霊性上のカルマは意識界として幾重にも重なり、これらが全体として作用する無限に近いほどの壮大な流
れにある。時空とはカルマに条件付けられているわれわれが、その時間と空間の認識の尺度によってわずかに
推し測っている限られた範囲にすぎないが、全存在そのものはそういったわれわれの認識を遙かに超えて作用
しあっている。全存在を認識できないかぎり、われわれはカルマ上の時間と空間に条件づけられ、当然、それ
らは時空を輪廻する行為(カルマ)を生む。

 

 

四、輪廻の主体とは何か

 

 こうしたカルマの影響を受け、時空を輪廻する主体とはいったい何であろうか。
 ここがカルマの最重要課題であり、今回もっとも探求したいテーマでもある。
 輪廻の主体を乗せる乗り物(業熟体)は個人的肉体(五官六根)の物質界から第八阿頼耶識の霊界層にまで
及んでいる。しかも、これらはすべて幾層もの入れ子状になって「いま ここ」に存在する個人の背後を包み
込み、全的に存在している。全て同時に関わりながら展開している。その中で「私」というものの人生が、
「いま、ここ」にあって流れているのだが、その「私」というものは意識の「認識の支点(視点)」であり、
その位置によって大きくそのその認識の範囲が変わってくる。
 この物質界の「私」は自我と言われる通常の「私」であるが、それは、物質界で形成されたカルマの支点に
よって認識されている「私」である。すなわち、日本で、両親により生まれ育ち、家庭や社会を通して形成さ
れ、成長してきた「私」自身である。これは前五識と六識のにより自覚されている「私」である。生老病死の
条件付けによって推移される「私」である。
 しかし、これが「私」の全てではない。ごく限られた一部の「私」が認識されているだけに過ぎない。さら
に、言うならば、この物質界の「私」は輪廻の主体ではない。物質的な「私」は物質が崩壊(肉体の死滅)に
よって、認識の手段を失うことになるが、その認識の手段によって形成された「私」はその背後にある(物質
界の枠を超えた)「私」に吸収されるので、物質的には、消滅したかに見えるが、消滅ではなく、「私」とい
う支点が切り替わるのである。
 それは、生死のときばかりではなく、日常の睡眠と目覚めのプロセス上、普段でも起きている。それゆえ、
この世では、睡眠はきわめて重要である。睡眠は「自我」が「真我」に吸収され、魂としての調整を受けると
る重要なときであるのだ。だから、睡眠が著しく妨げられれば、人は異常をきたし、きわめて危険な状態に至
る。
 さらに深い瞑想や禅定においてもこの切り替わりはおこっている。脳波がα波・θー波・δ波などを発する
場合は意識が無い?真我に還元されている状態である。
 また、極度な精神的緊張や薬物使用などによっても、これらは頻繁に起こりうるが、しかし、この場合の問
題は、精神の麻痺であれば、意識は狂躁し、精神の全体としてのバランスや統合能力を失うのできわめて危険
であるといわざるを得ない。人格破壊を引き起こしかねない。
 本来の「自我」と「真我」渉入のプロセス「入我我入」というものは、きわめて安全性が高く、ごく自然な
ものであり、通常は意識されない。睡眠時を含め、日常的に常に無意識的に心身のクリーニング、修正は為さ
れる。パソコンのオートデフラグのようなものである。われわれは、それに気づかないでいるが、この「真我
(自己の本質)」による浄化・同調作用は、「私」には絶対的に欠かすことのできないものとなっている。異
常がない限り、ほとんど無意識的に自動的にこの自浄作用システムが働き、浄化されているのだ。これがカル
マの浄化の基本形である。
 だが、何らかの意図によりこの自浄作用が破壊されるときがある。それはゆゆしき問題である。個人の自浄
作用が働かない場合、それは人類全体のカルマの問題として残ってしまうのである。人類全体が浄化すべきカ
ルマの問題として意識層をあくたもくたのように浮遊してしまうのである。
 ところで、「死」とは自我にとって「消滅の恐怖」を伴うものものの、全自我(真我)にとっては、日常の
睡眠のプロセスとなっら変わりはないものである。ただ、肉体の死滅によって、認識の主体は物質を超えた世
界へ認識の支点を移行するだけである。そして、おのおののカルマ(行為)によって、それぞれにふさわしい
浄化の段階・プロセスを経つつ、認識の支点はさらに大きな世界、自己の本質である真我へと移行される。そ
もそも認識の主体は本性(本来の自分)にあるので、移行されるというのは、認識の主体が移行するというよ
り、その支点が段階的に移行するのである。そのような認識の段階においては、死後の世界も認識の支点に応
じて顕現されてくるため、物質界にいるときと同じようにその世界に自分が存在するとという感覚を保有して
いるが、認識の主体にとって、この世と同じようにそれは仮現の世界である。その支点となるものは、確かに
その人の全体の「カルマ」によって自ずから気づくべき認識の支点を決める要因ではあっても、認識の主体そ
のものがそのような様々な世界を移行しているのではないのだ。当然、認識の主体である真我は輪廻してはい
ない。真我(本来のわれわれ)は輪廻の階層に同時に偏在しうる存在であるのだ。これはかなり重要な概念
で、われわれは死して後、真我に目覚め、あらゆる次元に偏在可能な無礙自在な存在となるのだ。
 さらにいうならば、輪廻の主体は業熟体と呼ばれるもので、この物質界の五官六根の世界から、仏教の唯識
でいう第八阿頼耶識を包含する全カルマの総体であり、これが輪廻の主体たるものである。人間の認識の主体
はこの業熟体をも超えるダンマ(法身)にまで、移行しうる。それを達成し証明したものがお釈迦さまであ
る。その境涯をに達したものを仏陀という。仏陀は全宇宙を包含する空無なる本源であるとともにダンマ(法
身)としての全宇宙を顕現せしめているがゆえに、あらゆる人類の業熟体に働きかけ、無限のダンマが顕わに
ならしめることを可能にした。全人類、全生命体をして真我に目覚めさせるべき法輪を転じている。仏陀出現
によって全人類は、はじめて、永い輪廻の呪縛より脱出して、真我に目覚めることが可能になったといえる。

 

 

五、人はみな菩薩であり、その課題とは

 

 さて、次にさらに重要な問題に入りたい。それは、人間としての「私」が顕現されている魂はこの地上でい
かなる生涯を送ろうとも、死後、自我が吸収される「真我」の一側面である「菩薩」という輪廻の主体に移行
するものということである。
 古来からの輪廻観では、この世の「カルマ」によって、死後、動物に生まれ変わったり、地獄・餓鬼・畜
生・修羅・人・天界に生まれることが説かれ、また、今日でいう霊感や霊能によって、そのような輪廻世界の
種々相をかいま見た経験者は無数あり、拙僧もこういう世界は何度も経験し見ている。しかし、誤解してはな
らないことは、餓鬼とか畜生とか表現された世界は、決して人間と動物との差別をいうのではなく、カルマに
より形成された人間の迷いの状態をあらわしている。
 動物・植物・鉱物にも種々の意識層があり、しかもそれら森羅万象悉く仏性の顕現であるが、彼らは、どの
人間よりも純真無垢である。カルマの浄化の役割をひたすら黙々と果たしている存在である。
 地獄に堕ちるというのは、この世の自我である「私」という主体が地獄の世界等を浮遊するというよりも、
この世の「私」の生涯を通し作り上げてしまったカルマが意識界で浮遊しているということである。カルマが
浄化しきれず潜在して残るということで、新たな生命にとっては、これが浄化するべき課題となって残る。浄
化できるまで、この課題は全生命・全人類のトラウマとして残る。
 新たな生命・人類はこのカルマの浄化をめざして出現している。特に人類は、このカルマの問題を自覚する
意識すなわち「私」をもって出現している。仏教でいう「菩薩」とはこの「世界カルマ」の浄化を誓願してる
存在を示すものであるが、まさしく、これこそが、「全人類」の本当の課題であるといえる。
 まさに、「人身受け難し」である。大宇宙の計り知れない営みの中から出現した人類は大宇宙の意志を認識
し、それを体し、大宇宙大自然界を調和に導く、まさに、これが「菩薩」なのである。人として生まれること
自体、奇跡的である。「菩薩」なるが故に自我が菩提心として発心するのである。
 こうした観点から見れば、「人が死ねば、皆、本来の菩薩に戻る」と言っても過言ではない。地獄に落ちる
ものは誰もいない。しかし、何度もいうように、人の生涯で刻み込まれた悲しみや苦しみ恐怖や不安や憎しみ
といった心や魂の傷即ちトラウマは人類の意識層に残り、浮遊することを忘れてはならない。これが、この物
質界を含め阿頼耶識に至るまで地獄の諸相を呈している。深刻なことは、これらが地上に生るものや新たな生
命のカルマ上のトラウマとなって働くということである。すなわち、「人」=「菩薩」によって、このカルマ
の浄化がなされるまで、まさしく、地獄にあって、その誓願を果たし続けるようなものである。それは、まさ
に、この不調和な地上界に出現するわれわれ自身の課題として跳ね返っているものである。全生命の浄化のプ
ロセスが大宇宙に作用しているからこその地獄界なのである。
 それゆえ、個々人のカルマ(行為)の責任は重大だと言わざるをえない。まさに、「私」の悲しみ、苦しみ
は「全人類」の悲しみや苦しみであり、「全人類」の悲しみや苦しみが「私」の悲しみや苦しみである。それ
だけに、個人が自己の人生を通し一つでも多くカルマの浄化を果たすことは、全人類、全宇宙のカルマの浄化
に大きく寄与するということに他ならない。
 人は亡くなれば皆本来の菩薩にたちかえり、生前の縁や誓願によって人類救済の活動を行う。肉体を有すれ
ばそれぞれカルマによる制約があり、思うように働けないし、エゴとエゴとの争いを繰り返すことが多かっ
た。しかし、死ねば皆、本来の魂である「菩薩」に還り、その歪みの調整にかかる。その調整の世界が霊界と
言われる意識界で、そこには段階に応じて、調整に必要なあらゆる環境が調えられている。それぞれの意識界
での調整も、その本質はカルマ浄化のプロセスにほかならず、全人類の意識層に大きく反映されるのである。
これは、本体がその世界を遍歴するのではなく、カルマの浄化のプロセスが働いている仮現の世界だというこ
とである。即ち意識の種々相、あらゆる階層に及んだカルマを浄化するため、「菩薩」はあらゆる階層で浄化
のプロセスを同時に働きかけるのである。物資界から、さらに六識、七識、八識の阿頼耶識まで菩薩はカルマ
浄化のプロセスとして、同時に顕現している。そして菩薩が向かっている本当の世界は九識以降の究竟である
涅槃寂静の「空」、密厳があるがままに世界に現出することをおいてほかにない。


探求すべきもの

「確かに自分はなにか大きな生命の流れというものによって生かされているという実感はございます。」と 隣席に座った青年はおもむろに語りだした。「しかし、そうはいってもほとんどの生はあの川に流れる泡沫の ように、現れかつ消えしつつ、与えられた時間の中でただ流されているようにしか見えません。私自身、必死 に生きて参りましたが、本当のところ、真に生きているのかどうか実感がわかないのです。」と言い黙ってし まった。

 

 この日、車窓から見える景色には冴え冴えとした静けさがあった。ちょうど朝日がさし、遠くの山々や麓の 街並みを美しく輝かせていた。全てがきわめて間近で凛としていた。

 

 「この人生の流れにいくら抵抗しようとも、抵抗そのものが、流れの中の悪あがきそのものです。そのよう な中で、自分は日々、周囲との軋轢に抵抗し、妥協し、ひたすら自己満足に逃避しては、抵抗と挑戦に明け暮 れしつつ、絶えずどこかでこれが本当の人生なのだろうかと不安なのです」そう語り始めた青年は経済学を専 攻し、いろいろな宗教を遍歴し、永遠のいのちやら霊性というものを探求してきたという。しかし、畢竟、全 ては「無」であり、霊性の問題は「無」を理解しえない恐怖心からくる自己欺瞞なのではないか。座禅や瞑想 などを実践してみたが、正直のところ、今ひとつ確実なところがつかめず、中途半端でいることなどをかなり 長い間話しかけてきた。

 

「坊さん、結局、世界も自分も真実が見えない不安や恐怖のため、誰かが標榜する 真理の名の下に主義主張・教義や信念に固執している。しかし、それがかえって真理に対する抵抗となってい るのかも知れない。さらに深刻なのは、心が虚ろなため、うわさ話や世間話に興じて、喧しい割には人生の真 理に対して怠惰であることです。
 坊さん!自分を含めこの現状を打開することは可能なのでしょうか。うわ さ話と同じく真理を云々している割には、どうしても、真理がつかめないのです。」

 

 相変わらず流れゆく新幹線の車窓、しかし、外の景色には微動だにせぬあの不思議な沈黙がずっと続いてい た。それはいかなるものをも包み込む圧倒的なまでのものであった。彼は話してる間、それを見ることはなか った。

 

 あなたのいう真理とは何であろうか。単に人が伝えたものであるのか。あなた自身の願望や自己逃避の幻影 にすぎないものなのか。それらはいずれも真理ではない。
 それより、そこにある沈黙をみたまえ。それがある からこそ全ては現れかつ消えしているとは思えないだろうか。この生の背後にある沈黙の力強さとはいったい 何であろうか。
 生の断片をみる限り、真理を見逃し、我々は経験や知識という断片の中で、喧しく、空しく仮 論を吐くばかりである。しかし、生の全体を見てみたまえ。さすれば、そこに微動だにせぬ沈黙が顕になって いるのを見る。 
 真理は遠くにはない。私たち自身の生そのものの中にある。世界はあらゆる恐怖に嘆き、苦 しみ、葛藤し、混沌としている。まさに事実を離れ真理は無い。あるべきだという理想は、真理をねじ曲げ、 世界を混乱に導く。欺瞞性、それが、いま世界中に起きている事実ではないだろうか。
 君が見ていることは確 かである。

 

 やがて電車は東京駅に着いた。青年は、軽く会釈をして、再び雑踏の中に飲み込まれていった。彼の瞳はき わめて明晰で、印象的であった。


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