龍雲 心の通信 3

遍照の霊光

あした朝にあお仰ぐ  遍照之霊光
  ゆうべ夕にみ観る  円明之月輪

 

 この詩は恩師から賜った扇に記された詩である。
 昭和四十八年一月、京都の東寺で行われたごしちにちみしほ後七日御修法で大行事を務められた恩師がその記念として、弟子に請われて、ご書印くださったものである。

 

 後七日御修法とは、今から千二百年ほど前、真言宗の高祖弘法大師空海が東寺に於い て国家安寧・世界平和・萬民豊楽を願って、天皇陛下の玉衣をお加持されて以来のものであ るが、今日まで継承され、毎年、真言宗十八大本山の大管長猊下方が東寺に集まって、正 月七
日過ぎから一週間、国家安寧の新年の大祈祷が修法される。これは、真言密教最高位の僧による修法とされ、最長老で最高位の阿闍梨が最後に修する祈祷秘法とされ、極寒のなかの修法は、ご高齢の大阿闍梨にはいのちがけの修法となる。

 

 我が恩師は昭和四十八年一月に行われた後七日御修法で大行事という「修法の大監督」を特別に数年にわたり務めることを請われた人間国宝の大阿闍梨であったのだが、その時 に書いてくださられたものである。
 あれから四十二年経つが、ふと、その扇が出てきて、大変懐かしく思って眺めている内に、こ れはこれは単なる扇子ではなく、密教の最奥義を印した大変な詩である事に気づいた(今更な がらではあるが)。

 

 今、これは新たな光彩をもって私の心に飛び込んできている。折しも、正月元 旦午前零時より紅玻璃色阿弥陀如来の新年の大護摩祈祷を修法している最中であった。
 これは、密教行者の深遠な大境地でありながら、われわれ凡夫不可欠の日々の祈りである。欠けることのない如来の慈悲を体現する大切な祈りの詩であった。

 

 その詩の示すところは 読んで字の如くであるが、いまの私にはこう響いている

 

 新たな生命の目覚めの朝(生) 
 今立ち昇る朝日の大いなる霊光(大日如来)を仰ぎ
 本不生の新たなるかけがえのない一日の躍動に尽さなん

 

 夕べには 一日の働きを終えて、たとえ、未熟なりといえども、
 二度とない人生(死)と諦観 (内観)し、
 圓明なる月の如く念い円かにし、
 かけがえのない一日の終わりに感謝し
 穏やかな本不生の床につく。

 

 一年一生 一日一生 刻々本不生 日々新たなり

 

 どうぞ、この一年が みなさまにとって かけがえのない一年でありますように
                           合掌
萬歳楽山人 龍雲好久


遍照と一者

前に現代科学における万物の理論というものを門外漢でありながら、取り上げたのは、物理 学や数学、天文学における最先端の理論が、ブッダ(釈迦牟尼佛)親説の「阿字本不生」に 迫るのではないかという、小生にとってきわめて興味深いものがあったからである。 そこで問わ れてい たのは単なる現象の枠内だけの経験的科学だけでは解明できない大宇宙・大自然界の 不可思議なる現象に直面した科学者たちの生涯をかけた探究の真摯な姿が繰り広げられてい たからであった。  彼らの、これらの難題は必ず自然科学によって解明できるという、探求への 篤い思いがあったが、 一方、神学者や宗教者にとっては、神への挑戦という由々しき問題で、まさに神を冒涜する人間の傲慢さほかならないものであった。そして、現代は産業革命や エネルギー革命、情報革命と進歩しつつも、それらは、たえず侵略と戦争を繰り返し、地球存続、生命の存続をないがし、最も危険な状態にさらすことと裏腹にあるように見える。これこそが愚かな人類の自らを滅ぼしかねない証拠ではないかと警鐘を鳴らし続ける。  だが、しかし、産業革命以来、こうした宗教と科学は真理をめぐって激しく対立してきたかのよう に言われるが、よくよく注意してみると宗教は科学による文明の利器をえて、逆に、より強固な世界侵略の道具として利用してきたのではないだろうか。  まさしく、人類の精神構造の愚劣さにメスを入れなければ、狂信盲信する精神的異常性を持つものに、科学によって生み出された核爆弾という凶器をもたせる危うい現実が絶えず人類を 震撼させ続けている。彼らには、必ず、宗教やイデオロギーや信仰などといった自分に好都合 な大義 名分が見え隠れしているのである。  ここまで来ても、人類は自らの精神構造の愚劣さに気づかないものなのであろうか? それとも、そのようなことは当たり前の人類の性で、今更、指摘されなくてもわかりきったとでもいうのであろうか?  だが、それでは、人類の滅びかねない絶望的なまでの悲痛な叫びに目をつむること、即ち、自己欺瞞にほかならない。嘆きや悲しみに麻痺し、他人ごとにする自己欺瞞に陥った精神の末路は、孤独と崩壊である。  個人的にも集団的にも、社会的にも国家的にも、地球規模的にも、人間が関わるあらゆる分野で、この「自己欺瞞」による争いと破壊の火種を取り、滅亡の種をまき散らしている。   自己欺瞞と言うのは「自分自身を欺く」ということなのであるが、その、自己欺瞞の最たるもの が自己逃避のための何らかの盲信・狂信であろう。「自分に自信のないものほど、経験や人の教えに自分を超えた力と価値を見出し、それによって、ダメなものが、社会が、世界がマシなも のとなっ ていくと信じていく」が、ダメなものからマシなものへというなんでもない当たり前の指向性 の奥に巧妙な自己欺瞞が潜んでいる。それに気づくものは少ない。  どうだろう、大義名分や信条・モラル、あるべき姿、目標・・・・が、平和で安らぎに満ちた、人 類一人一人がいきいきとした世界を導き出せたであろうか。いや、そういった旗を振り号令をかけ る大義名分が今日までの人類の歴史の中で何をしでかしてきたか、それはあまりにも歴然として いるのではないか。  こうした欺瞞性こそが、今日の不平等な社会を増長してきた張本人である。自信のないもの、 自信に満ち溢れたもの、不幸なもの、幸せなもの、差別するもの、虐げられるもの、貧しいもの、 富めるもの、成功するもの、敗退するもの・・・と、これらの人類の病的なまでの自我が自己の内部においても、家庭においても、地域社会においても、学校や職場においても、グループや組織 集団においても、国家においても民族においてもたえず侵略と破壊の渦を巻いた戦いを繰り返し ている。  いったい、「誰」がそんなわかりきった愚かしい世界を展開しているとでもいうのだろうか。他者だ ろうか。しかし、他者を意識する限り、自他の戦い必然である。そこには自己の利権が優先さ れ、それを侵害するものや異端な者を倒し、変え、変革や革命するによって、自己の望む世界 を拡大しようとして、血みどろの戦いを堂巡りに繰り返す。徒党を組んで、権力を笠に着て突き 進もうとする背景には「ひとり」の人間の脆弱性があるのではないだろうか。「自分」ほど力がなく、 何ほどのことも出来ない。自分じゃなく、そういった無力な自分たちを束ねて強靭にする何かを得 て確信することが必要だという。まさにこれが自己欺瞞に陥るところの当のものである。  実は、筆者がここで繰り返し取り上げようとする自己欺瞞の問題は、この「自分とは何か」とい う自己意識を持つ「全てのもの」への問いがあるからである。もちろん、ここで問題にしているのは 「自分とは何か」という観念や認識論のたぐいではない。  まさしく、「いま、ここで、見る」もののことである。そこでは「見る」こと以外には無く、「誰が」という 認識の主体を論ずることはない。なぜなら、見ることを通して、脳や感覚や記憶に蓄積された経験は確かに「自我」を形成し、一一の存在の主体性 を形成するのであるが、その経験や認識による主体性こそがが「あるがままに見る」ことを妨げ、 条件付け、色を付け、差別を生み、分離と争いの根拠となる自己欺瞞にほかならないと見抜く 者にとって、「あるがままに見る」とは認識の経験主体によって見るのではないということを理解し ている。  では、認識の主体性無く見ることは可能であるのか。「見る」が先であり、「認識や経験」が後 だということがはたして可能だということか。認識の個別の主体性がない、即ち、自分がないことで見ることは、そもそも「見る」ということを成り立たしめるのであろうか。それとも、個別の認識の主体 無く「見る」があるとすれば、それは誰か?  ここからが重要な事である。認識の主体である自己中心性は「そこからここへ」という「時間と 空間」を幻想する。そうでないと、瞬々に現れるものを認識できない。「いつ、誰が、何処で、ど のように」という認識による経験に依らなければ世界を把握できないと考えているが、しかし、その 動きは 常にゴテゴテである。いちぶ、経験により予測し得ることは可能だが、予測にすぎない。つ まり、ブッダがいうように、映しだされたものは、過ぎ去り終わってしまったものの記憶、残像にすぎ ない。それを実体視して、あたかもそれが現実に在ると認識していること自体が幻想、虚妄を生 む自己欺瞞 のはじまりなのである。だが、それを外した「見る」ものとは一体何か。  これを理解するヒントが「いま、ここ」なのである。マクロの大宇宙やミクロのヒッグズ粒子に至るま で、それはたえず「いま、ここ」であり、「いま、ここ」には、実は「時間や空間」の条件付けは働いていない。一人の人間にとってどんなに遥か彼方の無限の大宇宙の果であろうとも、あるいはどんな に測りがたい微小な超微粒子の世界であろうとも、ひとりの人間と同時に「いま、ここ」なので ある。  「私」がここから歩いて10分かかる「駅」、私を中心にしては10分後のいまの駅にしか立てないが、では、その10分の後に駅が出現するのではなく、たえず、歩いている私いかんに依らず、駅 は「いま、ここ」であることに変わりはない。  駅に向かっている私は、次の瞬間、暴走した車にはね られているかもしれないし、駅はタバコの火の不始末で燃えているかもしれない。  全ては「いま、こ こ」に瞬間としてたえず新しく顕れている。では、その「いま、ここ」ものは単に瞬間瞬間のなんの因果とも無関係な、個々別々の全く時間や空間に無関係なバラバラの事象にすぎないのであろう か。    因果を言うなら、原因と結果の無の連鎖、そこにはなんの絶対もなく、因果応報、相互依 存性の単なる無機質な連鎖という虚妄なる「空」の無神論論に陥るか、極大や極微の万物を 生み出し、大宇宙を統べる絶対なる「神」という因果を支配し超越する唯一絶対者の一神論 に陥るか。  が、しかし、いづれも自己欺瞞がつくりだした理論にすぎない。大きな過ちの始まりなのであ る。  そこで再び問う。「いま、ここで見るものとは誰か」。  (さあ、紙面に限りがあるから、急ぎ語ろう。)    それは「全一」なる「一者」であり、その「一者」とは 「二のない一」であり、それを見ることも知ることも、覚ることも至ることも出来ない。なぜなら「全て は一者」に他ならず、見る者自身であるからにほかならないからである。眼は眼そのものを見るこ とが出来ないように、刀は刀自身を切ることが出来ないように、「一者」は「一者」自身を見ること はない。  では、「いま ここで 見る」のは誰か。見られているものとは何か。見られるものは虚妄、 見るものは「一者」にほかならない。   人間に限らず、あらゆる生命は一つ一つの独自性を輝かせている。この独自性の要にあるもの が、「われ」や「自己」とい感受性や相の要となる「一者」自身である。 この森羅万象一切の万生万物に遍在する自己の感覚としての「一者」である。  それは自己感覚として働いているが、個々別々の孤立的自己感覚ではなく、全てに通ずる 自己感覚である。  孤立無援の孤独な自己感覚ではなく、全体の「一者」に通じ、しかも、自立自尊の「一者」である。  森羅万象、万性万物、個々のものは、すべて「独りあるものとしての一者の全き存在」であると同時に「全体」である。  ということは「どんな顕現も一者として完全である」というこである。「素粒子」であろうが「原子」 であろうが「分子」であろうが「鉱物」であろうが「植物」であろうが、「動物」であろうが、「魂」の意識体である「エーテル体」「メンタル体」「アストラル体」「コザール体」「ブッデイ体」であろうが、 「一 者」として完全に独り立つものして顕現している。それ故にこそ全ては顕現しうるということであ る。    全ては「一者」から「生み出されたもの」であり、「一者」は絶えず生み出し続けるものである。これは虚妄にすぎないのであろうか。  確かに、生み出されたものは、ブッダが示されたように絶えず留まることなく消失す ることで更新されている。時空に留まるものは断片化された抜け殻であり、虚妄に過ぎな い。  だが、小さな虚妄なる我々にとって、宇宙がいかに広大無辺なものであろうとも、「全てがいま」 なのである。たとえ何億光年先にしかたどりるけない遙か彼方の宇宙であろうと、「常にいま」で ある。  なぜなら全ては「二のない一」即ち「一者」である。  「一者」は全てに同時にいま顕れ更新し続けるものである。  この阿字本不生の「普遍」である全てに顕現し続ける「一者」こそ「見る」ものにほかならない。  嘆きも悲しみも喜びも「一者」なるが故であり、それをあるがままに見ることにこそ「普遍の一者」 が在り、そこから不生の仏と現象の心が一如としての行為が生まれる。    ということは、自己をもって現実を直視することこそが光明であり、一切が「自身の光」であることこそが真の宗教的行為であるといえるのではないだろうか。                                               萬歳楽山人   龍雲好久 b

意識革命

そもそも、今から2500有余年前に、インドの地でお釈迦様(ゴーダマシッタルダ釈迦牟尼佛)の 説示さようとされたものは、人類が長い進化の過程で陥っていた虚妄の法、すなわち人類がハ マってしまった、政治・経済・文化・宗教などにおける認知上の迷妄を打破するための挑戦であ ったのかもしれない。

 

 ブッダはこう説かれていた。

 

 「人々はわがものと執着したもので悲しむ。自分の持っているものは 実に常住でないからである。これは必ず失われる性質のものである。とわかったあとは、在家にとどまっていてはならない。」

 

 「わがものと執着する」のは、例えば目の前のそれを、「わがもの」と認識し、外に在る実体とみ なしているのであるが、この判断は知覚が意識した「静止像」を、記憶している「静止像」由来の 形態観念に照合して外界にある「わがもの」と思っているだけであり、実際は想起された形態観念ど
おりの実体が外に在るのではない。目の前に知覚されている「静止像」を、想起された観念どおり「わがもの」と認識するフィクション(虚妄の法)を真に受けるのではなく、その知覚原因とし て外界に〈経過〉する実態を「常住でなく、必ず失われる性質のものである」と判ったら出家する のがよいということである。

 

 「わがもの」として執着の対象となっている事物は、「実相」では「実に常住でなく」、「失われる性 質のものである」とされる。「常住でない」とは「静止して存在するのではない」、「〈今〉変動しつつ ある」という意味である。さらに「失われる性質のもの」とは、「停滞なく、経過して(〈今〉のその変動が)消失する」、つまり、「過去になる」という意味である。

 

 このことは、同じ在り方が知覚されることはなく、今、外界に知覚されたものは、太初以来一回 だけ経過して消失する性質のものである。

 

 われわれの知覚の原因になっている外界は、経過して《消失しつつある〈今〉の〈変動〉であ る》から実は常に「捕捉される静止的事物」がない。これが、ブッダの示された〈空性〉であっ た。ブッダは世界が〈空性〉であることを心から認識するために出家するがよいと勧めていたので ある。

 

 さて、読者諸氏のなかには、NHKのクローズアップ現代で取り上げられていたのでイスラエルの 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏著サピエンス全史』(上下巻)をご存じの方も多いであろう。
 この本は、135億年前から現代及び未来に至るまで歴史年表上、人類250万年の歴史を4 っつのターニングポイント(1,認知革命。2,農業革命。3,人類の統一。4、科学革命)を挙げ て、全く新しい切り口で解釈している。(興味のある人は、直接、原著・翻訳本にあたってほし い)

 

 その独特の切り口は誠に斬新で驚異的でさえあるが、妥当性が高い。
 先ず、認知革命。これは、今から、およそ7万年前。われわれの祖先、ホモ・サピエンスが生き 残れたのは、認知革命にあった。
当時、より力が強い、ネアンデルタール人という別の種族もいましたが、生き残ったのはホモ・サ ピエンス。ネアンデルタール人は、リンゴなど、実際に見えるものしか、言葉にして周りに伝えられ なかったが、ホモ・サピエンスは、神様のようなフィクションを想像し、それを全く見知らぬ他人に 伝えるこ
とができたという。。

 

 まさしく、フィクションを想像し、みんながそれを信じる。そのことで多くの仲間と協力し、大集団での作 業が可能になった。これが人類の最初のターニングポイント、認知革命により、われわれの祖先が集団で大きな力を発揮し、地球上の覇者になった。

 

 しかし、ユヴァル・ノア・ハラリは「文明の発展が人間を幸せにするとは限らない」と指摘。

 

 例えば、およそ1万2,000年前に始まった、農業革命。これは、集団で力を合わせて小麦を栽培することで、食料の安定確保ができ、人口が増加。社会は大きく発展したというのが、通 説だが・・・。
 しかし、集団としては発展したけれど、人間一人一人は、狩猟採集時代より働く時間が長くな り、不幸になる人が増えた。しかも、貧富の差まで生まれたという。

 

 ここで彼の驚くべき指摘は、"食糧の増加は、よりよい食生活やより長い余暇には結びつかな かった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られ る食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。"

 

 さらに、特異な指摘は「小麦という植物から見れば、人間を働かせて小麦を増やさせ、生育範囲を世界中に広げた。つまり農業革命とは、"小麦に人間が家畜化された"とも言えると指摘する。

 

 さらに「実は幸せかどうかを考えるのは、最も大事なことなのだが、歴史を振り返ると、人間は集団の力や権力を手に入れても、それを、個人の幸せと結びつけるのは得意ではなかった。現代人は、石器時代より何千倍もの力を手に入れているが、一人ひとりはそれほど幸せには見えない。」
 "2014年の経済のパイは、1500年のものよりはるかに大きいが、その分配はあまりに不公平 で、アフリカの農民やインドネシアの労働者が一日身を粉にして働いても、手にする食料は、50 0年前の祖先よりも少ない。
人類とグローバル経済は発展し続けるだろうが、さらに多くの人々が飢えと貧困にあえぎながら 生きていくことになるかもしれない。"

 

 この問題は会社やお金だけでなく、宗教や法律国家もそうである。これらは全て、人間が生み 出したフィクション。それをみんなが信じることで人間は発展してきたけれど、人間一人一人は、 狩猟採集時代より働く時間が長くなり、不幸になる人がえた。しかも、貧富の差や人種差別まで 生まれた。 

 

 資本主義は、いま、限界に来ているかという質問には、「資本主義は近代で最もう まくいった考え方で、宗教とさえいえる。
でも、そのために大規模な経済破たんや政治的な問題も起きている。いま、たった一つの解決策は全く新しいイノベーションを起こすことだと思う。
 今の資本主義や貨幣経済に代わる新しい 概念というもの、みんなで抱えることができる共同のフィクション。 単なるフィクションではなく、共同で持てるフィクションを作る必要がある。」

 

 「サピエンス全史」はわれわれの未来を展望し、人間の能力をはるかに超えたコンピューター の登場。遺伝子を思いのままに操作した、デザイナーベイビーの可能性など、科学技術の進歩 で人間を取り巻く環境は、急速に変化している。

 

 未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含め て、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。
 おそらく未来の世界の支配者は、ネアンデルタール人から私たちがかけ離れている以上に、 私たちとは違った存在になるだろう。」"

 

 「今後1、2世紀のうちに人類は姿を消すと思う。でもそれは、人間が絶滅するということではなく、 バイオテクノロジーや人口知能で、人間の体や脳や心のあり方が変わるだろう。ということ。そうし た将来の人間、超ホモ・サピエンスはこの先、人間は自分たちが作った科学にのみ込まれてしまうの か。 それとも、うまくコントロールできるのか。その、未来を切り開く鍵は、私たち人間が欲望をコントロ ールで きるかどうかだ」と説いている。

 

 この、『サピエンス全史』に触れて、痛感するのは、ブッダが最も厳しく挑戦されたのは、人類がホモ・サピエンスとして進化するプロセス上、必然的に拡大せざるを得ないフィクションへの依存性が飽くことなき欲望のおける欺瞞性であったのかもしれないということだ。

 

 しかし、残念ながら、仏教の歴史もまた、サピエンス全史が指摘するホモ・サピエンスと 超ホモ・サピエンスの延長線上にあり、冒頭に掲げたブッダの説示は、難解だと一笑に付し、 自己の教派の布教拡大こそが、人類の未来を展望すると信じてやまない。

 

 ブッダの親説は『ホモ・サピエンスの空性における意識革命』なくして、超ホモ・サピエンスの新生創造は起こらないといっているような気がしてならない。
                                    萬歳楽山人 龍雲好久


大地のぬくもり

朝晩めっきり寒くなってきて、あれほど暑かった日々が遠い過去のように思われる。
 しかし、咲き残るコスモスの花がひとつふたつ、微風に揺れるように、まだ、草木や土にぬくもりが漂う。
 野良仕事も、収穫を終えて、一段落なのだろうか、何かしら安堵した優しい土の香が心地よ い。
 思わず、ありがとうと、土いじりをしたこともないものでも、土に触れて感謝する。

 

 霊山の雲の合間から、一条の朝日が差してきて、広く、深く、森を林を田畑を家々を町並み を、紅玻璃色の深く優しい黄金色の光に包み込みつつ、くっきりとした陰影を映しだす。
 その光は、どこか、懐かしいてしようがない。

 

 この懐かしさは一体なんなのだろうと、しばし心を留める。すると、それは、朝まだき光ではあったが、夕日にも似て、夕餉の支度、風呂を沸かす薪 の煙り、薄暗くなるまで遊びにふける自分を「ご飯だよ」と呼ぶ声を思わせる。一瞬にして母なるも のを甦らせるこの思いはなんなのであろう。

 

 確かに、この世で生きることは実に容易ならざることである。誰しもが、人生の絶えざる挑戦に晒されながら、自分を保持すべく躍起になって生きてきた。世間という環境は否応なしに、食うか 食われるか試練に晒す。正直な人生を生きるものも、不正直な人生を生きるものも。何処かでい つも戦い、挑み続けている。自分はたえず詭弁を浪し、平気で嘘をつき、おめおめと生きてただ けに、四面楚歌に陥り、孤独である。

 

 その孤独と虚ろな自分への恐怖に耐えられず、大義の中に身を移し、絶えずおしゃべりと噂話と 自己主張を繰り返す人生。それでも、自分は自分だと、これまで、孤軍奮闘してきたものの、ふ と、この、夕日にもひた朝日にあって、一瞬、我に返ったように、「ただいま」と我が家に帰ってい
た子供の頃が甦る。

 

 あの、なんの不安もなく、まっすぐに生きてきた自分が懐かしい。
 天真爛漫で一 点の曇もなく、ひたむきだったほんの僅かな一瞬。
 それが、やがて、他者との関わりがますにつれて、臆病で、小心で、ひと目を気にし、まるで、自分を殺すかのような偽りに満ちた人生にどっぷ り
浸かったまますっかり忘れさっていたものが、ふと心によぎった。

 

 この何処か懐かしい陽光の中で、しばし、佇んでいると、ふと、自分はいったいなにをしてきて いるというのかという問があらわれた。
 それは、責めるというものでもなく、問いただすというものでも なく、裁きにかけるというものではないものであった。

 

 しかし、この光にあって湧き上がるこの感情は、単に、欺瞞の人生に疲れたものが、すべてを 放棄して、我が家に帰りたいだけのノスタルジア、あるいは、自己逃避であるのだろうか。
 確かに、誰しも、自分の人生の居場所必要だ。だが、どんなに居心地か良かろうが悪かろうが、たとえ、容赦ない呵責と叱責の中で放浪していようと、休む間もない過酷な戦闘状態にお かれようと、いつかは、死が、すべてを終わらせてくれる。生きることに辟易し、休みたい。もうこんな偽
りに満ちた人生を終わりにして自由になりたい・・・のが本音なのだろうか。

 

 そういえば、生きながらえればながらえるほど罪業ばかりが積もる人生をおめおめと生きていてな んの意味があるのであろう。
 このまま、生きていてよいのだろうか。そんな思いが湧いてくるが、死 ぬこともできない自分に諦めに似たため息がこぼれる。

 

 すると、先程まであたりを照らしていた紅玻璃色の光が自分にさしてきて、優しく、しかも、威厳 に満ちた響きとなって、返ってきた。

 

 君のいのちは、昨日・今日・明日と生きる君の思い(自我)の中にはないのだよ。
 君がたとえどんな人生を辿ってきたにせよ。それはすでに終わっている。
 君は自分が、この世に生まれ、育ち、成長し、やがて、老い衰え、死にゆくものと見ているが、 それは自分があるからであり、本当は、あると信じている自分は、そこには無いのだよ。

 

 君は、昨日の自分が、今生きており、明日に生きる自分だと見ている、だが、それは、脳や記 憶が形成している自己感覚からくるもので、脳が死滅すれば消えてしまう自己感覚でしかない。 それが生まれれば有り、それが失われれば無くなるという、 「それ」は脳や記憶による反応で、実体ではない。本当の自分はそれではない。

 

 君は大宇宙・大自然界の壮大な天地創造の進化が過去・現在・未来の壮大なプロセスを 経て、大宇宙・大自然界の営みによってもたらされているのが自分だと見ている。なるほど、そ れは確かな事実であろう。だが、そう見ている自分というものは、何であろうか。脳や記憶や概念、経
験により自己形成化された虚構の自分にすぎないのではないか。

 

 しかし、現実の自分は何かといえば、先験(まだ現れざるところ)より、今に経過し、消失するも のであるから、経験され、蓄積された自己感覚は現実のものではなく、カンバスに描き出された 仮想現実を実体視する虚構の自分である事に気づくことができるだろうか。
 なぜなら、それは実に単純明快な事実に基づいている。
 すなわち、君は、記憶や思いや想像を以て過去を振り返 ったり、未来を思い描くことは可能であっても、では、「今」という一瞬を一秒たりとも前に戻すこと はできないし、過去に身をおくこともできない。また、今より一秒たりとも先に、すなわち未来に身をおくこともできないのが事実である。
 SFや漫画や理論上は過去・現在・未来を自由に往来できても、それは仮説でしかなく、時間の歴時性(先験より今に経過し消失する過去)を逸脱することは事実としてできない。
 これは実相においては時間が成り立たないことを如実に示しており、それ を真如といい、如来という。それが実相ならば、当然、空間も成り立たないのが実相である。そ れが、空間として成り立っているように見ているのは、物資を実体視しそれ依存しているからであ る。

 

 いま、瞬間に現れた自分を脳や記憶に蓄積し、それを、絶えず、先験より今に経過し消失し 続ける実相を、記憶に留めつつ、今を繰り返し録画し続けることで、外界に重ね合わせる。そし て、あたかも外界に実体があり、それらが時間と空間を経て生きていると捉えているのだが、錯覚であ
るとも思わない。

 

 だが、録画された映像は過去のもので、今の現実ではないと誰しもがわかるように、いかに、脳 内や記憶において繰り返し過去を再現したとしても、時間そのものを過去に戻すことも、未来に 移すこともできない。映像や音源といえども、記録されたものの改変や編集は行われても、決し て、移した瞬間の今をもう一度時間を遡って、録画を取り直すことは、決してできない。

 

 生々流転の森羅万象を実体視しているのは脳や記憶や概念上の自己感覚によるのだが、 実体とするから、生々流転の進化のプロセスを実体における変化のプロセスと見てしまう。それが、ものに執着するもととなる。あたかも、自分という実体が、この世に生まれ、育ち、死に逝き、無 になるとみて、更に、死後の世界における自己の実体を仮想する。しかし、あの世やこの世を実 体視しているものとは、一体、誰か。

 

 このように、君が実体として見ているものはなにひとつ実相ではないのだよ。

 

 では、実相とは何か。何度も示すように、先験より今に経過し消失し続けるということ。すなわち
刻々に生まれ、刻々に死んでいく実相は大宇宙体であろうと大自然界であろうと、この世であ ろう
とあの世であろうと、時空によって実体化されたものの生滅を言うのではなく、すべては瞬瞬に 全く
新しいいのちが、先験より今に経過し消失し続けている事実を実相というのだ。

 

 ということは、今君が自分は生老病死、変化変滅を繰り返している実体の自分の変化だと見 ているが、それは虚妄の自分を見ているに過ぎない。
 事実は仮想の変化変滅の中に吹き込ま れる、全く新しいいのちとしての実相にある。本当の君は今この瞬間に、全く新しき創造性から、 刻々にもたらされ続ける、刻々の全く新しい君なのである。

 

 過去にも未来にもまったくなかった全く 新しい君であるのだよ。
 実相としての今の君は一秒前の生き残りでもなければ、一秒後に消えて しまう君ではなく、刻に全く新しい君が刻々の今に経過しているのだ。

 

 それはいかに広大無辺な 大宇宙であろうと、また大自然界であろうと、君以外のあらゆるいのちが君と同じく過去に一度 も出現したことのな
い、全く新たな創造としてもたらされているであり、それ故にすべては全く新し い現れである。過去を引きずっているのは君の脳であり、記憶にすぎない。

 

 君がこの紅玻璃色に輝き出す朝日にあって、ふと、なんとも言えぬ安らぎを覚える のも、実は、君自身をもたらすものの先験なる実相がまさしく万物に遍満している創 造の母であり、慈しみであり愛であるからなのだよ。

 

 ここまで来て、ふと、見上げれば、なんと高い青空、そして、突然、かまびすしく騒ぎ立てる小鳥 たちの鳴き声。野外活動に並び歩く嬉々とした子どもたちの声が遠く聞こえる。
 この深まりゆく秋の気配の、ああ、なんと広く、高く、かすかなのであろうか。どこまでもつつみこむ 閑けき大地の景色。あたかも、あの激しかった急流がすべての活動を終えなんと、ゆったり、深 く、全き静けき大川となりて、大海原に環えらんとする、がの水底の不可思議なる静けさが、なお 一層の、秋の深まりを感じさせる。

 

 

 

                                             龍雲好久


自然

 

台風による甚大な災害が東北や北海道に及ぶことは昔はあまりなかったように思うのだが、今 年
は複雑怪奇な台風の動きに直接さらされている。やはり、報道によると地球温暖化によるメガ クライ
シスに突入しているのだろうか。

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