五相成身観

全ての人々に 観法を

一、ボロブドールの寺院遺跡の模型を入手

 

 5月に寺の埃まみれた古い大般若経典の一巻一巻を調べようと思い立ち経典を手に取っていたのだが、ふと、脳裏にボロブドールの遺跡が浮かび、模型は出ていないかと、ただちにネット検索をしてみた。
 すると、まさに、探していた当のものが出展されていたのである。躊躇せず、すぐに取り寄せた。というのも、これまで、数年来、探し続けてきたが、一度たりとも見つけられなかったからである。それで、心に浮かんだこととはいえ、今回もダメ元で探してみたのである。何と!今回は一つだけヒットしたのである。
 手のひらに載るほどの小さなものであった、思いのほかよくできているようにみえる。手元の書籍にあるボロブドールの古い設計図とみくらべると、明らかにそれにに基づいて作られており、小さい割りには精巧に作られていた。まさに、天から授かりものとしかいいようがない出会いだった。

 

 

二、ボロブドール寺院遺跡と般若理趣経

 

 ボロブドールの遺跡については、栂尾祥雲著『般若理趣経の研究』のなかで詳しく論じられていて、近年、その古い論文読んで、その関係性について初めて知った。実は、このとき、萬歳楽山と般若理趣経の関連について、不可思議な導きがあり、わからないながらも自分で模索していたときのことであった。小生においてはごく最近にちかいことである。法圓寺に出現し続ける氷の如来や菩薩や不動利剣の聖像や三角四面体(マカバ)や氷のアルナチャラ聖山、氷の萬歳楽山などさまざまな自然現象を紐どくために必要な内示を得たり、不思議な書物に偶然に導かれたりして、このボロブドール寺院遺跡の研究論文にまで及び、小生は何も知らないものであるが、このボロブドール遺跡は、小生がこれまでの探求したことに深く関わる重要な「鍵」であるように思われてならない。

 

 

三、如来の思し召しは?

 

 あるとき、ご本尊に対峙していたのであるが、自心の中で、このような思いがわき上がってきた。恥を忍んでありのままに記すことをご容赦願いたい。
(おお!如来よ、せっかく、大切な如来との邂逅とご教示を得ておりながら、われは、全くの凡愚。いまだ真実の光りを見いだせずにいる。自ら光りを発することもなく、自我の蒙昧な私見をいたづらに重ねるばかりである。真実を見ることも、聞くことも、話すこともできず、このかけがえのない人生をただ漫然と生きて、そのまま終わる。
 自身に光りを見出せないのは、世俗に埋没し、迎合するばかりである生き方しかできないため、いまだ、自ら光を発することはない。
 人の考えや理論を我が物のように組み立てて、妄見を語るだけの浅薄なものだ。
 肝心なことは何ひとつかんではおらず、なにもわかっていない。
 おお!如来よ!なぜ、不可思議が示されるのであろうか。せっかく不可思議なる真実をまのあたりにしながら、無為に終えるばかりで、アクタモクタのまま消え去る。
 いや、自身はそのようなものだが、しかし、決して、如来の導きを忘れることはない。たとえ、このまま、何も見えなくなり、聞こえなくなり、話せることも、動くこともなく、死に絶えようとも、決して、如来から頂いた導きを、消し去ることはできないであろう。
 だが、しかし、その思いも、消えさるのみではないか・・・・。

 

 おお!如来よ!自心の光りとなるのは、到底、無理であるか?
 あまりにも愚鈍で、足りない。もう、時間はない!消え去るのみ!
 かつて、メタトロンがエルランティとして或る或る者に降りたように、エノクが或る者に降りたように、カムアマナが或る者に降りたように、この愚凡なるわれに如来の真実がまのあたり降りてくることを願うのは、自身の無明を自覚し得ないものの傲慢不遜な思い上がりというものであろうか。
 手の施しようがない愚もの。だからこそ、自心の光りを見いださなければならないのだが、先は短く、愚かなまま消えてゆくのが事実であろう。
 嗚呼!それにしても、このまま、如来の手足ともなれず、如来の光の一部ともなれず、無明のまま、消え果てるとは・・・・。まことに申し訳ない。)

 

 このような思いに陥っていたとき、ふと、今上天皇がジャワのボロブトールの遺跡を視察されたという報道を目にした。
 あっ!と思った。
 というのは、萬歳楽山もボロブドールも、いま、混迷している世界の安穏と天地自然の蘇生を祈るには、畏れ多いことながら、今上天皇をして見えざる世界から、何らかのお働きを示されるはずであると、心の奥で、ズーッと思っていたからだった。
 やはり、「ボロブドール」が動き出しているのだ!
 それならば、小生が感じているこの必然性をどのようにして示せるというのであろうか?
 この愚か者にその任を担えるとは全く思えない。では、なぜ、自分に、いま、「ボロブドール」なのであろうか。単なる思い込みでしかないのか?
 それにしても、が単に、コロナが開けて天皇陛下が即位されて初めての訪問地ジャワのボロブドールであったというだけでは済まされない何かがあるように思えるのは自分だけであるのか。
 まさに、いま、見えざる何かがはたらいている!

 

  偶然とはいえ、ボロブードールを視察したこともない自分にいま、ここに、そのボロブドール寺院の模型が「現象」として実際に与えられた。
 それと期を一にされるかのように、上天王陛下がボロブドールを訪ねられた。思い下がりも甚だしいが、自分にはそうとしか思えない出来事であった。  単なる偶然だというのか?自分は本当にこのまま終わるしかないのか?
 その不可思議なるボロブドール寺院は、いまここで、小生にいったい何を示そうとしているのであろうか。 

 

 

四、亡者の不可思議な内観

 

 このように、小生がボロブドール寺院と萬歳楽山と般若理趣経を意識するようになったのは、以下の不思議な体験を経ているからである。

 

 あるときのこと。ある方の枕経に臨み、経を挙げているときに、あるビジョンが浮かんだ。浮かんだというよりはっきり心眼で見ていたことだが、その亡くなった方が、山の石段を一歩一歩登り、広場に出て、そこで、右回りにその山を一巡する。正面に出ると、更に、先の山の石段を登りはじめ、広場に出る。そして、右回りにその山を一巡している。不思議であるのは、右旋する人物の右側、山の面には、影のようにその人物の一生が映し出されていることであった。思うに、その人の前世から現世の生涯が映し出されているのであろう。
 これは!まさに亡くなった方が、この山で内観しているのだと思った。しばらくして、この亡者は、突然、歩みを止めて、山側を向く。すると、彼の前の山の一角が開いて、彼はその中にスーッと入っていってしまった。慌ててどこに行くのか見届けようと覗いたが、余人には見ることは許されていないらしい。すぐに、閉じてしまい、彼は別世界に旅立ったようであった。
 この山全体は萬歳楽山のようでもあるが、しかし、もっと山はもっと活き活きとしていて清浄なる山であった。
 この時期、枕経でこのようなビジョンに遭うことが続けて三度ほどあった。
 三度目でさすがに不思議なこともあるものだと思って帰宅して、ひょんなことで栂尾祥雲著『般若理趣経の研究』に載っているジャワのボロブドールの写真を見つけ、驚愕した。亡者のプロセスとボロブドールに刻まれているブッダの生涯のプロセスが構造上、一つであるようにと思われたからだ。
 しかも、このボロブドールの寺院は、金剛頂経の普賢金剛薩?(本初仏毘盧遮那仏)と関連しているという。
 ここで、はた!と気づく。おそらく、萬歳楽山の山頂で見たものも、彼のジャワのボロブドール遺跡の寺院と同じヒビキを発しているものだったのだろう。
 それで、四川省の大地震の頃に、この山で般若理趣経を供養するよう導かれたのかもしれないと、今更等ながら思い至ったのである。これは、あくまで、私見に過ぎないが・・・。

 

 

五、ボロブドール寺院はブッダの五相成身観のプロセスに基づいている。

 

 上記の経緯もあって、今回、もう一度、ボロブドールの研究論文を探した。
石井和子著「ボロブドールと『初会金剛頂経』」をみて、「あっ!」と思った。 ボロブドールの構造は釈尊の前世から現世へそして涅槃へのプロセスをあらわし、その覚りの内観のプロセス=五相成身観の境界を示すものだという。。

 

 ブッダや金剛頂経の五相成身観は、もちろん、小生はとうてい及びつかぬものであるのだが、まさに如来との対峙させて頂いたときに顕れた小生の観想のプロセスや、萬歳楽山頂での観想のプロセスや、紅玻璃秘法の観想のプロセスの根底に流れているものでもあったように思える。ハータックの観想。カムアマナの直観、不可知の雲の観想、高橋が小生の目の前で示してきた観想、最近では恩寵により頂いたイザヤ書の偈頌と毘盧遮那の観想であり、ブッダが親説として示されていた本初不生の覚りの観想、クリシュナムルティの自己凝視そのものにも根底に流れているもののように思える。

 

 小生にとって決定的なものは、まさには、萬歳楽山頂での観想、大光山無量壽如來の前で突然起きた紅玻璃色無量壽如來秘法、法圓寺に冬度々出現する三角四面体、これらから教示されたマカバ・トーラスと五股金剛杵、大宇宙と個々のいのちの観想は、全く以て、一切如来から示された観想法であったのかも知れない。
 戯論として一笑に付されるにしても、確かに、愚鈍なる小生に起きたプロセス、まさにこの五相成身観そのものであった。

 

 では、なぜいま、五相成身観が如来から示されたのであろうか?
 万人に不可欠なブッダが示されたブッダ如来、光りあるものの観想法を全人類に開放する必要に迫られているからにほかならないからだと思う。

 

 

六、五相成身観とは(別紙)

 

 では、先ず、五相成身観とはいかなるものか。まさに金剛頂経に当たってみよう。
 まさに、自身が問うたことがそのままはじめから起きているではないか!!

 

 

七、ボロブドール寺院遺跡は初会金剛頂経の五相成身観によって建立されたものであり、真言宗の祖師たる金剛智三蔵とその弟子不空三蔵がジャワのボロブドール寺院にて邂逅していた場であった。

 

このボロブドール寺院が衆生に伝えようとしていたものを鑑みるに、それはまさにあらゆるいのちの観法にあった。
 この、観法の真意を感受しないかぎり、今日の宗教が陥っている宗教的遺物にしか過ぎず、するには、ブッダ親説の阿字本不生によらねば、単なる宗教的遺物でしかない

 

五相成身観の実義は本不生の潜象と現象のコトワリを万人に共振させるカタカムナの宇宙論が浮上してくるように思われてならない。

(続く)


五相成身観

【龍雲法坐資料】 「五相成身観について」

 

金剛界大曼荼羅広大儀軌品
正宗分

 

[一] 初加行の三摩地 (五相成身観)

 

【内容】
釈尊に比定される一切義成就という名の菩薩が菩提道場で阿婆頗那伽(不動)三摩地に入っていたところに、どこからともなく一切如来が姿を現して菩薩を警覚し、難行を重ねる菩薩に対して、速やかに一切如来の真実を獲得する修行方法として、真言とともに月輪と金剛杵を用いた五段階からなる観想法を教示するのである。その結果、菩薩は一切如来に加持されて、自らに備わる如来性に目覚め、 一切如来と平等性となって金剛界如来として成道する。金剛界如来とは序分の毘盧遮那如来のことであり釈迦如来にあたる。 そして金剛界如来は一切如来によって須弥山頂の金剛摩尼宝峯楼閣にある獅子座に加持されて住し、一切如来はその周囲に阿?等の四仏となって金剛界如来の会座を形成する。

 

 

一切如来の住処

原文
 時一切如来。満此仏世界。猶如胡麻

 

訓読
 時に一切如来、此の仏世界に満ちたもうこと猶し胡麻の如し。

 

和文
 その時、一切如来たちによって、この仏国土はあたかも胡麻(の莢)
のように満たされていました。

 

〔語註]
此の仏世界・・・この仏国土。閻浮提。
猶し胡麻の如し・・・ 「胡麻」に対し、サンスクリット原典は「胡麻の莢」とある。

 

梵文和訳
 膽部洲への移動

 

 かくて一切の如来たち(は毘盧遮那を囲んで瞻部洲へと移動し、それら如来たちの身)によってこの仏刹はあたかも胡麻莢の如くに遍く満たされたのであった)。

 

 

 

 

一切如来の警覚

原文
 爾時一切如来雲集。於一切義成就菩薩摩訶薩坐菩提場。往詣示現受用身。咸作是言。善男子云何証無上正等覚菩提。 不知一切如来真実忍諸苦行。時一切義成就菩薩摩訶薩。由一切如来警覚。即従阿娑頗娜伽三摩地起。礼一切如来。白言。世尊如来教示我。云何修行。云何是真実。

 

訓読
 爾の時に一切如来、雲集して、一切義成就菩薩摩訶薩の菩提場に坐したもうに於て往詣して、受用身を示現し、咸く是の言を作したもう。
 善男子よ、云何が無上正等覚菩提を証せんや、一切如来の真実を知らずして諸の苦行を忍んで、と。

 

 時に一切義成就菩薩摩訶薩、一切如来の警覚に由りて、即ち阿娑頗那伽三摩地より起ち、一切如来を礼して白して言さく、
 世尊如来よ、我に教示したまえ、云何が修行せんや、云何が是れ真実なるや、と。

 

和文
 その時、一切如来たちは、大きな集まりとなって、菩提道場に坐っている一切義成就という菩薩摩訶薩のところに近づきました。
(近づいてから) 菩薩に対し受用身を現して、
次のように言われました。
「よい生まれの若者よ。 どのようにして最高の正しい悟りを得るつもりなのか?
あなたは一切如来の真実を知らないで、あらゆる苦行に耐えているが」と。
 すると、一切義成就菩薩摩訶薩は、一切如来たちによって促されて、アースパーナカという心の集中からもとにもどり、
一切如来たちに礼拝してから、次のように申し上げました。
 「尊き如来たちよ、どうか私にお教えください。どのように修行すればよいのでしょうか? またその真実とは、どのようであるのでしょうか?」と。

 

 

[語註〕
雲集して・・・「大きな集まりになる」。
一切義成就・・・成道以前の釈尊の名。同時に真言行者をさす。 「すべての目的 (アルタ)を達成している」という意味。 アルタは、ダルマ (正義)・カーマ(愛)と並んでインド人の人生の三大目的の一つである。
菩提場・・・菩提道場ともいう。如来の悟りを得る所。
往詣して・・・ 「近づきました」という意味。
受用身・・・報身ともいう。 大乗菩薩の願と行の結果として、とくに十地の菩薩に現前する仏身。
一切如来の真実・・・文字通り「一切如来の真実」であるが、「一切如来」は「全一なるかた」というニュアンスであり、数多くいらっしゃるすべての如来という意味ではない。
諸の苦行・・・sarva-duskar?ny 「あらゆる苦しい行い」の意味。 ここでの sarvaは先の「全一なるかた」 の sarvaと違い、「あらゆる」である。
警覚・・・促されての意。
阿娑頗那伽三摩地より・・・息の出入を制止して身心不動に住する三摩地。「不動三摩地」、「無識身平等持」等と訳される。また遍空三昧ともいう。三摩地は心を一点に向けて精神統一すること。
起ち・・・「起き上がってくること」ではあるが、瞑想状態から普通の状態に戻ることを指す。
礼して白して言さく・・・・ pranipatya-hya-evama サンスクリット原典ではまず「お辞儀して (pranipatya)、お招きして (?hya) 次のように (evam) 言いました (?ha)」となる。
我に教示したまえ・・・「知らしめたまえ」というよりもむしろ「教えてください!」という切なる叫びである。
云何が修行せんや・・・サンスクリット原典の原意は「どうすれば私は得られるのでしょうか」。 何を得るかというと、「一切如来の真実」である。この一切如来は「すべての如来」ではなく、 「全一なるかた」の意味である。
何が是れ真実なるや・・・サンスクリット原典の原意は「どのような真理を得られるのでしょうか」 の意味。

 

梵文和訳
   一切の如来たちによる驚覚

 

 そこで一切の如来たちは大集会に入り、一切義成就菩薩が菩提道場に坐しているそのところに近づいた。近づいて菩薩に(おのがじしその)受用身を示現して、次の如くに言った、

 

 「善男子よ、汝が(そのように)あらゆる難行に耐えたからとて、どうして汝は無上なる正等覚を現等覚する(ことができる)であろうか、汝は一切如来の真実を知ってはいないのであるから・・・・。」

 

 

 

 

(1) 五相の一 通達本心(通達菩提心)

原文
如是説已。一切如来異口同音。告彼菩薩言。善男子当住観察自三摩地。
自性成就真言。自恣而誦
  ?質多鉢?底微騰迦?弭
時菩薩。白一切如来言。世尊如来我遍知巳。 我見自心形如月輪。

 

訓読
 是の如く説き巳るや、異口同音に彼の菩薩に告げて言わく。
 善男子よ、当に自心を観察する三摩地に住して、自性成就の真言を以って自ら恣に誦ずべし、と。
  ?質多鉢?底微騰迦?弭

 

 時に菩薩、一切如来に白して言さく。
 世尊如来よ、我遍く知り巳んぬ、我自心を見るに形月輪の如し、と。

 

和文
 このように(一切義成就菩薩が)語り終わると、一切如来たちは、声をそろえて、その菩薩に告げられました。
 「よい生まれの若者よ、自らの心をよく観察するために心を集中
させ、自性として成就している真言を欲するだけ唱えながら、修練しなさ
い」と。
  「オーム。私は心に通達します」
 その時、その菩薩は、一切如来たちに、次のように申し上げまし
た。
 「尊き如来たちよ、私は理解しました。自分の心(むね) のあたりに月輪のような形が見えます」と。

 

 

〔語註〕
異口同音に・・・ 原意は「一つの喉で」つまり常識的には「すべての如来たちが声を一つにして」ということである。
自心を観察する三摩地・・・「大日経』の如実知自心に相当する。
自性成就…真言の不可思議な効力、有効性をいう。なお五相の一の真言を徹心明ともいう。
遍く知り已んぬ・・・「私は理解した」の意味。
形月輪の如し…・月輪の形相。軽霧 (雲) に覆われた月等に喩えられる。

 

梵文和訳
【第一・通達菩提心】 そこで一切の如来たちに驚覚されて、一切義成就菩薩は(はっとして)我にかえり、その無動三味より起って一切の如来たちに頂礼し、(彼らに)呼びかけて次の如くに問い申し上げた、

 

「世に尊き諸の如来たちよ、教示たまえ、私はどのようにすれば、(また)どのような
(真理命題としてのその) 真実に通達することができるのでありましょうか」と。

 

 その様に言われて一切の如来たちは、かの菩薩に口を揃えて次のように仰せられた、

 

 「通達せよ、善男子よ、〈自己の心を各に観察する三昧〉によって、(すなわち、その命題の内容とそれを誦することとの同一性がその本性よりして成就しているところの(したがって、誦しさえすればそのことが成就する筈の、次の如き) 真言を好きな(回数)だけ誦することによって・・・・。
オーム・チッタプラティヴェーダム・カローミ。
(オーム、われは〔自〕 心〔の源底〕に通達せん。)」

 

 

 

 

(2) 五相の二 修菩提心

原文
一切如来咸告言。善男子心自性光明。猶如遍修功用。随作随獲。亦如素衣染色。随染随成。 時一切如来。 為令自性光明心智豊盛故。 復勅彼菩薩言
    ?菩提質多畝怛波娜夜弭
以此性成就真言。 令発菩提心。 時彼菩薩。 復従一切如来承旨。 発菩提心已。作是言。如被月輪形。我如月輪形見。

 

訓読
一切如来、咸く告げて言わく。
善男子よ、心は自性光明なり。猶し遍く功用を修するに、作すに随って、随って獲るが如し。亦、素衣の色を染むるに、染むるに随って、随って成ずるが如し、と。
 時に一切如来、自性光明の心智をして豊盛ならしめんが為の故に、復、彼の菩薩に勅して言わく、
  ?菩提質多畝怛波娜夜弭
 此の性成就の真言を以って菩提心を発さしむ。
 時に彼の菩薩、復、一切如来より旨を承けて、菩提心を発し已って是の言を作さく、
  彼の月輪の形の如く、我も亦、月輪の形の如く見る、と。

 

和文
一切如来たちは、お答えになり
「よい生まれの若者よ、この心はもともと光り輝くものなのだ。
 それはちょうど色を塗られれば塗られたように(純化されれば純化されたように)なるのだ。あたかも白い布を赤で染めると、赤になるのと同じようなものである」と。
 そして一切如来たちは、心は本来光り輝くものであるという智慧を大きくするために、再び、その菩薩に命じられた。
すなわち、
 「オーン 私は菩提心を発します」という
この自性として成就している真言によって菩提心を発させたのです。
 そしてその菩薩は、再び一切如来の命令を承けて、菩提心を発してから、次のように申し上げました。

 

「先ほど月輪のような形であったものが、月輪であるとはっきり見えます」と。

 

 

〔語註〕
自性光明・・・心の本性は清浄無垢で光り輝いていること。如来蔵なる自性清浄心のこと。
素衣・・・白い布、白い着物。
自性光明の心智・・・心の本性が清浄無垢で光り輝いていることを知る智慧。
豊盛ならしめんが為の故に・・・phitikaranahetoh の phiti は 「大きくなること」。全体で「大きくするために」。
勅して言わく・・・相当する語句は原文にはない。
性成就・・・自性成就に同じ。
旨を承けて・・・教勅とも訳されるが、要するに命令を受けること。
彼の月輪の形の如く・・・ サンスクリット原典は「月輪そのもの」。軽霧(雲)が晴れて浄らかな月輪が鮮明に観見されること等に喩えられる。

 

梵文和訳
【第二・修菩提心】 そこで一切義成就)菩薩は一切の如来たちに次の如くに申し上げた、
 「私は教示られ、その通りにいたしました、世に尊き諸の如来たちよ。(その結果)私には(私)自身の心蔵(の上)に月輪の行相が見えてまいりました」、と。

 

 一切の如来たちは仰せられた、

 

 「善男子よ、汝の心蔵の上の月輪として表象されたところの汝の)この心は本性清浄である。それは丁度(汚れている布が) 浄治され(て本来の清浄さをとり戻し)た如くに、その如くに清浄なものとして本来より)あるのである。(逆に言えば、汝のその心が現に煩悩によって染?せられているにしても、それが本来清浄なることは、本来) 白い衣を染料で染めた(場合の)如くなのである」と。
 そして一切の如来たちは、(この、自) 心が本性清浄であるという認識を増大せしめんがため、重ねてかの(一切義成就)菩薩に対して、
 オーム・ボーディチッタム・ウトパーダヤーミ。
 (オーム、われは菩提心を発さん。)
という、この(命題の内容とそれを誦することとの同一性がその本性よりして成就している真言(を教示し、それによって (菩薩に清浄の) 菩提心を生起せしめた。

 

 そこで(一切義成就) 菩薩は重ねて一切の如来たちの教勅に従ってこの〈発菩提心真言〉を誦し、それによって菩提心を生起せしめて、その結果を次の如くに申し上げた、

 

「私の心蔵の上に顕現した) その月輪の行相をしたものが私には(いまや真の) 月輪そのものとして見えてまいりました。」

 

 

 

 

(3) 五相の三 修金剛心

原文
一切如来告言。汝已発一切如来普賢心。 獲得斉等金剛堅固善住此一切如来普賢発心。於自心月輪。思惟金剛形。以此真言
   ?底瑟?縛日?
菩薩白言。世尊如来我見月輪中金剛。

 

訓読
 一切如来、告げて言わく、
 汝巳に一切如来の普賢の心を発して、金剛の堅固なるに斉等なることを獲得したり。善く此の一切如来の普賢の発心に住して、自らの心の月輪に於て金剛の形を思惟するに、此の真言を以ってすべし、と。
   ?底瑟?縛日?
 菩薩、白して言さく、
世尊如来よ、我月輪の中の金剛を見る、と。

 

和文
  一切如来たちは、言われました。
 「あなたは、もうすでに一切如来の心髄であり) 普賢なる心を
発し、それによって金剛のように堅固な心を得たのだ。
(それを十分に自分のものとしなさい。) 一切如来の普賢なる心を
発こして(その心の状態をより確かなものにするために、次の真
言を用いて、自身の心(むね)の月輪の中に金剛杵の形を思念しな
さい」と。
   「オーン 立て、金剛杵よ」

 

 菩薩は申し上げました。
 「尊き如来たちよ、月輪の中に金剛杵が見えます」と。

 

 

〔語註〕
一切如来の普賢の心・・・サンスクリット原典は「一切如来の心 (心髄)にして汝の普賢なる発心」。前の菩提心を受けた語で、菩薩は今や自らの如来性に対する確信を深めたという意。
金剛の形・・・五股金剛杵の形(影像)。
底瑟・・・ tistha この語は「立て」 「起て」と訳されることが多い。現代も「オン バザラ チシュタウン」という形で日常の行法や作法に用いられている。その意味も「金剛よ、起て」と訳されている。
見る・・・ pa?y?miという語が使われていることに注意したい。この語から読み取れる語感は、ここで菩薩は月輪の中の金剛を、瞑想の中で心の目で見ているのではない、ということ。現実にそこにある物(コップとか花瓶の花とか)を普通に目ではっきりと見ている、そしてそこにそのコップや花瓶の花があることは疑いようも無いように、そのようにはっきりと「月輪の中の金剛」を見ているのである。決して心の目の映像ではなく、現実のものとして、はっきりと見ているのである。

 

 

梵文和訳
【第三・修金剛心】 一切の如来たちは仰せられた、

 

「(それは)汝(に内在するところ)の一切如来の核心〉である。(汝は今や)
普賢(菩薩の大菩提心を発したのであり、(そのことによってわれわれによって) 敬礼さるべきものとなっている。その大菩提心)はよく完成されねばならない。(そこでまずその) 一切如来普賢心を発すことを堅固になさんがために、汝はこの真言を誦すること)によって自らの心蔵の月輪中に金剛杵)の影像を思念せよ。
 オーム・ティシュタ・ヴァジュラ。
 (オーム、立て、金剛杵〕よ。)」

 

(一切義成就)菩薩は申し上げた、

 

 「世に尊き諸の如来たちよ、私は月輪中に金剛杵)を見ます」と。

 

 

 

 

 

(4) 五相の四 修金剛身

原文
一切如来咸告言。令堅固一切如来普賢心金剛。以此真言
  ?縛日羅怛麼句哈
所有遍満一切虚空界。一切如来身口心金剛界。以一切如来加持。悉入於薩?金剛。則一切如来。 於一切義成就菩薩摩訶薩。以金剛名。号金剛界。金剛界灌頂。時金剛界菩薩摩訶薩。白彼一切如来言。世尊如来我見一切如来為自身

 

訓読
一切如来、成く告げて言わく。
一切如来の普賢の心の金剛を堅固ならしむるに、此の真言を以ってすべし、と。
  ?縛日?怛麼句哈 
所有、一切虚空界に遍満せる一切如来の身口心の金剛界は、一切如来の加持を以って、悉く薩?金剛に入る。
 則ち一切如来は、一切義成就菩薩摩訶薩に於て、金剛名を以って、金剛界、金剛界、と号して灌頂したもう。
 時に金剛界菩薩摩訶薩、彼の一切如来に白して言さく、
 世尊如来よ、我一切如来は自身為りと見る、と。

 

和文
一切如来たちは、言われました。
「この一切如来の普賢なる心の金剛杵を、次の真言を用いて、より堅固なものにしなさい」と。

 

 「オーン 私は金剛杵を本性とするものである」

 

 すると、すべての虚空界に遍満するほどの、一切如来の身体と言葉と心の金剛界のすべてが、一切如来たちの加持力によって、その(一切義成就菩薩の) 月輪中の金剛杵の中に流入しました。
 「そして一切如来たちは、尊き一切義成就 (大) 菩薩を、
「金剛界、金剛界」と、金剛の名前の灌頂によって灌頂し(祝福し)ました。

 

 その時、金剛界大菩薩は、一切如来たちに、次のように申し上げました。
 「尊き如来たちよ。私は自らが一切如来の(身体と言葉と心の金剛界のすべてを凝集した)身体であることを知りました」と。

 

 

〔語註〕
心・・・この「心」の原文は citta で、知覚可能な心。
但麼哈・・・「~のような性質を持つ」というニュアンスになる。
薩?金剛・・・前の「一切如来の普賢の心の金剛」を受けた語で、菩薩に生じた堅固な心(金剛心)。月輪の中の金剛杵をさす。
遍満せる・・・集合すること。
一切義成就菩薩摩訶薩・・・ サンスクリット原典は「世尊」の語を加え、 「一切義成就大菩薩」とする。
金剛名・・・灌頂名。密教における名。
金剛界・・・前の「一切如来の身口意の金剛界」の語を受け、金剛を本質とする者の意。 界は因、秘密等の意で、如来蔵を表す。五相の四で菩薩は完全に質的な変化をする。別序の智身を象徴する月輪の中の金剛杵の体性と究極
的に合一して、清浄な法身(金剛身)を獲得した段階。
金剛界菩薩摩訶薩・・・ サンスクリット原典は「金剛界大菩薩」。 大菩薩は別序の普賢大菩薩という語に由来する。
一切如来・・・ サンスクリット原典は「一切如来身」。
見る・・・ここでは「私は理解しました」の意味。

 

梵文和訳
 【第四・証金剛身並 に 名灌頂】一切の如来たちは仰せられた。
 「汝はこの真言(を誦すること)によって一切如来普賢心たるその金剛杵)を堅固になせ、
 オーム・ヴァジュラアートマコー・アハム。

 

 (オーム、われは本性においてこの金剛〔杵〕に他ならず。)」

 

 (一切義成就菩薩は言われた如くにこの真言を誦した。)すると、一切虚空界に遍満するほど(に多くの)それら一切如来身語心金剛界のすべては、一切の如来たちの加持によってその薩?金剛杵)の中に入った。そこで、一切の如来たちによって、彼、世に尊き一切義成就菩薩は、

 

「(汝は) 金剛界なり、金剛界なり。」

 

と、金剛名灌頂によって灌頂された。

 

 そこで(今や) 金剛界(という灌頂名を得た一切義成就) 大菩薩は、それら一切の如来たちに次の如くに申し上げた、

 

 「世に尊き 諸の如来たちよ、私には私自身が一切の如来たちの総体を自らの身体(とする者)であるように見うけられます。」

 

 

 

 

 

(5) 五相の五  仏身円満

原文
一切如来復告言。是故摩訶薩。一切薩?金剛。具一切形成就。観自身仏形。以此自性成就真言。随意而誦
   ?也他薩婆怛他讓多薩怛他哈
作是言已。金剛界菩薩摩訶薩。現証自身如来。尽礼一切如来巳。白言。唯願世尊諸如来。加持於我。令此現証菩提堅固。作是語已。一切如来入金剛界如来彼薩?金剛中。

 

訓読
 一切如来、復、告げて言わく、
 是の故に、摩訶薩よ、一切の薩?金剛は一切の形を具することを成就せり。
自身の仏形を観ずるに、此の自性 成就の真言を以って、意に随って誦ずべし、と。
   ?也他薩婆怛他讓多薩怛他哈
 是の言を作し已るや、金剛界菩薩摩訶薩、自身の如来たることを現証し、尽く一切如来を礼し已って白して言さく、
 唯し願わくは、世尊 諸の如来よ、我を加持して、此の現証菩提をして堅固ならしめたまえ、と。
 是の語を作し巳るや、一切如来は金剛界如来の彼の薩?金剛の中に入りたもう。

 

和文
一切如来たちは再び言われました。
「ならば、偉大な薩?よ、(その) 月輪中の金剛杵の全体が、一切の立派な身体的特徴をそなえ(た仏陀の姿となるように)、 自ら(そのような) 仏陀の姿として観相しなさい。(同時に)次の自性として成就している真言を用い、それを欲するだけ低誦しなさい」と。

 

 「オーン 一切如来たちがあるように、そのように私はあります」

 

 このように告げられた時、金剛界(大) 菩薩は、
自身が如来であることを明らかに悟り、一切如来たちを礼拝してから、次のように語りました。
「尊き如来たちよ。私を加持してください。 そしてこの悟りを堅固なものにしてください」と。
このように言われた時、一切如来たちは、金剛界如来の月輪中の金剛杵の中に入られたのです。

 

〔語註〕
是の故に・・・ 「ならば」とした。
一切の薩?金剛・・・ satvavajram 「一切の」に相当する語句は原文にはない。
一切の形・・・一切の最勝形。仏の三十二相八十種好の意で、清浄な色身を得て受用身に転依した段階。
現証し・・・現等覚。

 

梵文和訳
 【第五・仏身円満】 一切の如来たちは仰せられた、

 

 「大薩?よ、その観を更に進め、次の如き自性成就の真言を好きな(回数)だけ誦して、(それ)によって、あらゆる最勝の行相を具備し、仏の影像ある(その)薩?金剛(杵)を(汝自身であると観想せよ、

 

 オーム・ヤター・サルヴァタターガタース・タター・アハム。

 

 (オーム、一切の如来たちがあるが如くに、その如くにわれはあり。)」

 

一切の如来たちによる加持

 

 かくの如くに言われて金剛界大菩薩は直ちにこれこそがかの〈一切如来の真実〉、すなわち即身に成仏を齎(もたら)す究極の真理の命題に他ならざるところのこの〈仏身円満の真言〉を誦したのであるが、それによって)その場で自らが(今や) 如来であると知って)現等覚(した。現等覚)して彼ら一切の如来たちに頂礼し、次の如くに申し上げた。

 

 「私を加持したまえ、世に尊き諸の如来たちよ。そして(私の)この現等覚を堅固ならしめたまえ。」

 

 そのように言われて、一切の如来たちは金剛界如来のその薩?金剛に入った

 

 

 

金剛界如来の成道

原文
時世尊金剛界如来。当彼刹那頃。現証等覚一切如来平等智。 入一切如来平等智三昧耶。証一切如来法平等智自性清浄。則成一切如来平等自性光明智蔵如来。 応供正遍知。

 

訓読
時に世尊金剛界如来、当に彼の刹那の頃に、一切如来の平等智を現証等覚し、一切如来の平等智の三昧耶に入り、一切如来の法の平等智の自性清浄なることを証して、則ち一切如来の平等の自性光明の智蔵、如来応供正遍知と成りたもう。

 

和文
すると、尊き金剛界如来は、まさにその瞬間に、一切如来の平等性の智慧を明らかに悟り、
@一切如来の平等性の智慧を明らかに悟り、
A一切如来の(金剛のような) 平等性の智慧(を象徴する) 印の秘密の三昧耶に入り、
B一切如来の教えのような平等性の智慧に通達して本性の清浄なることをさとり)、
C一切如来のすべての平等性をさとること)によって本来光り輝く智慧の源となり、如来・阿羅漢・正等覚となったのです。

 

〔語註〕
当に彼の刹那の頃に・・・まさにその瞬間に。
三昧耶… [guhya-] samaya サンスクリット原典には漢訳にない guhya (秘密の)という語がある。
自性清浄なること・・・本来の情態が清らかであること。
智蔵・・・jn?na?kara 「智慧 (jn?na)」 の鉱脈 (?kara)」、すなわち源という意味。
如来応供正遍知・・・仏の異称で、如来と応供と正遍知は仏の十号の最初の三つにあたる。

 

梵文和訳
金剛界如来の成道

 

 すると世に尊き金剛界如来はその刹那直ちに、

 

 一切の如来たちと(自ら)の平等性を認識したそ)の智慧によって現等覚せるもの、
 一切の如来たちと(自らとがその)金剛(の智慧)において平等なることを認識したそ)の智慧によって印契の秘密の三味耶に証入せるもの、
一切の如来たちと(自らとがその)法において平等なることを認識するそ)の智慧に通達することによって自性において清浄ならしめられるもの、

 

 一切の如来たちと(自らとが)あらゆる点で完全に平等なることを認識したこと)によって本性清浄なる智慧の源となったるもの
 如来・阿羅漢・正等覚者となったのである。

 

 

金剛界如来の神変加持

原文
時一切如来。 復従一切如来薩?金剛出。 以虚空蔵大摩尼宝。 灌頂。 発生観自在法智。安立一切如来首羯磨。由此往詣須弥盧頂金剛摩尼宝峯楼閣。至已。金剛界如来。以一切如来加持。於一切如来師子座。 一切面安立。

 

訓読
 時に一切如来、復一切如来の薩?金剛より出でて、虚空蔵大摩尼宝を以って灌頂し、観自在の法の智を発生して、一切如来の毘首羯磨に安立し、此れに由って須弥慮頂の金剛摩尼宝峯楼閣に往詣したもう。至り已って、金剛界如来は一切如来の加持を以って、一切如来の師子座に於て一切の面に安立したもう。

 

和文
その時、一切如来たちは、再び一切如来(金剛界如来)の月輪中の金剛杵から現れ出て、(金剛界如来を)虚空蔵大摩尼宝の灌頂によって (三界法王の位に)灌頂し、観自在の法 の智慧を生起させ、一切如来のすべての行為を実現する位に安立してのち、スメール(須弥) 山の頂上にある金剛摩尼宝頂の楼閣に向かわれました。 そこに到達すると、 (一切如来たちは) 金剛界如来を一切如来たるものとして加持してから、 一切如来の説法の座としてふさわしい)師子座に、すべての方角に顔が向くように坐らせたのです。

 

 

〔語 註〕
一切如来の薩?金剛・・・金剛界如来の薩?金剛。
毘首羯磨・・・「創造神たること」。ヴィシュヴァカルマン (Vi?vakarman) は工巧神トゥバシュトリの名前であったり、太陽の七色の光線のこと、太陽神の別名などの意味がある。
発生して・・・ 「生起させ」という意味。
須弥盧頂・・・須弥山。 世界の中心に聳える四角四面の妙高山で、その頂上は帝釈天 (インドラ神)をはじめとする三十三天の住処であることから三十三天 (切利天)ともいう。
金剛摩尼宝峯楼閣・・・頂(峯)が金剛と摩尼宝珠(または摩尼と宝石)によって荘厳された楼閣。
往詣したもう・・・「向かわれました」という意味。
至り已って・・・「到達して」の意味。
師子座・・・如来の説法の座。
一切の面に・・・全方位に面を向ける意。 図像上は四面で表現される (四面毘盧遮那)。
安立したもう・・・使役の形で「しっかりと据える」こと。

 

 

梵文和訳

 

 須弥山頂金剛摩尼宝頂楼閣への移動・金剛界如来は一切如来の位に就く
の位に就く

 

 そこで一切の如来たちは再びかの一切如来薩?金剛より出でて虚空蔵大摩尼宝灌頂によって(金剛界如来に)灌頂し、(ついで) 観自在菩薩)の法の智慧を生起せしめ、(さらに彼を自分たち一切の如来を代表する) 〈一切如来〉として一切業者(すなわち宇宙建造者)たる地位に据え、その上で彼を伴って) 須弥山の頂上なる金剛摩尼宝頂楼閣に移動した。(そしてそこに)移ると、金剛界如来を加持して一切如来〉たるの資格を授け、一切如来の師子座に一切方に向いて坐らせたのであった。

 

 

 

金剛界如来の会座

原文
時不動如来。宝生如来。観自在王如来。不空成就如来一切如来。 以一切如来。加持自身。婆伽梵釈迦牟尼如来。 一切平等。 善通達故。一切方平等。観察四方而坐

 

訓読
 時に不動如来と宝生如来と観自在王如来と不空成就如来との一切如来は、一切如来を以って自身を加持し、婆伽梵釈迦牟尼如来は一切平等に善く通達したもうが故に、一切方の平等なることを観察して四方に而も坐したもう。

 

和文
そしてまた一切如来たちは)阿閃如来と宝生如来と観自在王如来と不空成就如来の四如来)となり、それぞれが一切如来たるものとして自らを加持してから、尊き (金剛界如来すなわち)釈迦牟尼如来はすべてのものが平等であることをよく理解しているので、かれら四如来も)一切の方角の平等なることを認識して、その (金剛界如来の四方に坐られたのでした。

 

〔語註〕
不動如来・・・阿?如来のこと。
観自在王如来・・・サンスクリット原典は「世自在王」。他の箇所には「無量寿」とも出す。阿弥陀如来のこと。
との一切如来・・・この漢訳は原文には存在しない。
釈迦牟尼如来・・・金剛界如来のこと。一切義成就菩薩が釈迦族に生を受けた歴史的事実を反映した呼称。
観察して・・・ 「認識して」 の意味。

 

 

梵文和訳
四方の一切如来

 

そこで阿閣如来と宝生如来と世自在王如来と不空成就如来は、〈一切如来〉たるの資格を自分自身に対しても加持して、世尊釈迦牟尼如来が一切平等性によく通達していることからして一切の方角は平等であるとの認識に従って、(世尊の)四方に(それぞれに)坐したのである。

 

参考文献

 

●真言宗教相全書五『金剛頂経』監修宮坂宥勝 (四季社)
●『梵文和訳 金剛頂経』津田真一 (春秋社)

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