魂の遍路とカイラス山

魂の遍路とカイラス山

『カイラス山から響いてくるもの』は、 住職が長年の仏縁と人生の遍路を通して感受した “本不生のいのち”の響きをまとめた特別篇です。 宗教的概念ではなく、 実際の体験と現象を通して立ち上がった 「魂の遍路」の実相を示しています。 萬歳楽山、氷の聖像、枕経の黙想、 そしてカイラス山の山容── それらが指し示す「源流 今に 新たなり」の意味を 静かに読み解く一冊です。

はじめに  被災されし魂にささぐ



【供養文】


被災されし尊き魂にささぐ
                           合掌


2026年8月、ネパール=チベット国境域にて、 一瞬にして尊きいのちが大自然の猛威に呑み込まれました。
歓喜寺 大光山正徳寺・阿弥陀如来御前にて、 その尊き魂の安寧と導きを祈り、 本不生の源流より湧きいずる光の響きをもって、 この供養文を捧げます。


第一章 災害の事実と聖なる道の断絶
2026年8月26日、ランタン・リルン氷河の崩壊により、 トリシュリ川上流域で大規模な土石流・鉄砲水が発生した。
カイラス巡礼の主要玄関口である ギロン国境検問所(吉隆口岸)は完全に破壊され、 聖地へ向かう道そのものが断たれた。
多くの巡礼者、観光客、住民が犠牲となり、 いまなお多数が行方不明である。
この地は、 ボン教・仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教・シーク教の巡礼者が カイラス山へ向かうために必ず通過する「聖なる道」であった。
その道が断たれたという事実は、 単なる自然災害ではなく、 魂の遍路の象徴的な断絶として、深い衝撃をもたらす。


第二章 祈念──霊峰カイラス山への呼びかけ


おお、霊峰カイラス山よ。
汝は、天地を貫く中軸として、 本不生の源流をいまここに示し給う。
その御元、釈尊の生誕の地ネパールにおいて、 尊きいのちが一瞬にして呑み込まれた。
嗚呼、この尊き魂を、 どうか護り給え、導き給え、救い給え。
本不生の源流より湧きいずる光にて、 いまここに安らぎを与え給え。
人類の愚行により、 聖なる道が断たれたかのように見えようとも、 いのちは本不生の源泉より刻々と新たに創造される。
いまこそ、 人類の意識が本不生の響きに目覚めんことを。
合掌。


第三章 魂の遍路と本不生の法理
魂の遍路とは、 この世とあの世を隔てず、 いまここに刻々と新生創造される 本不生の響きを生きる歩みである。
カイラス山は、 この本不生の源泉を象徴する霊峰であり、 天と地を貫く光の軸である。
いのちは滅することなく、 本不生の源泉より新たに湧きいずる。
ゆえに、今回の災害で失われた魂もまた、 本不生の源流へと還り、 新たなる光として息づいている。
魂は消えず、 本不生は滅せず、 いのちは刻々と新たに創造される。
この法理こそ、 供養の根底に流れる「源流 今に 新たなり」の響きである。


第四章 結び──本不生の源流への導き
ここに、 被災されし尊き魂の安寧と、 本不生の源流への導きを祈り、 この供養文を捧げます。
合掌。





画像出典NHKテレビ画像から

第一輪:序文  “本初不生”の源泉、いま ここに

龍雲法坐副読本 『魂の遍路』シリーズ

 『カイラス山から響いてくるもの』


第一輪:序文  “本初不生”の源泉、いま ここに
┌─────────────────────────────────┐
│ひとこと │
│ この章では、龍雲が魂の奥底で幼少期から感受し続けてきた │
│「源流の響き」が、どのようにしてカイラス山の山容として立ち │
│上がったのか、そして、カイラス山が、実は、あらゆるいのちの │
│魂の遍路の“起点”である霊妙なる本不生を指し示すものであるこ │
│とを初めて明かしまてまいります。 │
└─────────────────────────────────┘


名状しがたく、量り知られざる響きが、
子守唄のように、安らけく、
静謐の深みから聞こえてくる。


幼き頃より、
宗教の奥に、学問の奥に、修行の奥へと需め続けども、 
なお、届かぬ奥の深みから、
絶えず、清流のせせらぎのように
魂の奥底から響いてくる。


その響きは、いまにして思えば、
「源流 今に 新たなり」という本不生の響きであり、
“いのち”そのものの響きであった。


自身におけるさまざまな人生の遍歴の中で、
寺にまつわる仏縁の見えざる響き、
萬歳楽山の不可思議なる響き、
次々地出現する不可思議な氷の聖像の響き、
枕経で見た魂が登廊右回しつつ映ずる内観の響き、
ボロブドゥールの寺院遺跡が発する般若理趣の響き、
碧空に毅然として聳え立つカイラス山の山容と四源流の響き、
これらはすべて、
あらゆるものの“いのちの源泉”、
すなわち
次元を超えた“本不生”の先験なる源泉に
気づくよう導かれていたのであろう。
本書は、
こうした次元を超えた響きの正体、
すなわち、
“先験なる本不生”が源泉の如く湧き出していることを、
そしてそれらは現代物理学が解明しつつある
ダークエネルギーからダークマターから物質へ互換重合しながら
万生万物を新生創造(新創)しているという
宇宙森羅万象の“いのちの実相”を伝えようとしている。

第二輪:欺瞞性の問題

第二輪:欺瞞性の問題
┌─────────────────────────────────┐
│ひとこと │
│  魂の遍路を成り立たしめているものはなにか。自己凝視、すな │
│わち、自分自身をあるがままに見るという行為そのものであった。 │
│万生万物には魂としての「こころ」があり、それらが時空を超え │
│て「対話する」世界である。ゆえに、「個々のこころが核心とな │
│って、一切をつなげている」のである。この意味で、自己凝視は │
│何も人間のみのものではない。万生、自己を有しなければ、個々 │
│としての宇宙を現出し得ないのである。よって自己とはネットワ │
│ークの中心にある機能であろう。龍雲が”魂”と呼ぶ場合、それは │
│「局所化したこころ」であると同時に、普遍的に「遍在するのこ │
│ころ」でもある。よって、魂の遍路においては、従来のように、 │
│死んだものが、生前の自分の行為を振り返えり、反省させられる │
│という贖罪の構造にはないということを指摘しておきたい。 │
│ さらに、この世もあの世もその魂が生み出されている場である │
│が、その場は留まることなく、刻々と生み出される場であるので、 │
│先ず、あの世があり、次にこの世があり、更にあの世があるとい │
│う構造にもないことを指摘しておきたい。 │
│ つまり、魂の遍路は、常に、「いま、ここ」である。こころが │
│はたらく場が、この世であろうが、あの世であろうが、常に自己 │
│を見つめる、すなわち世界を見つめる自己凝視の場として、「い │
│ま、ここ」が現象化している。 │
│ よって、この自己凝視の働きが魂の遍路を成り立たしめている │
│といえるのである。それは「こころ」であり、「いのち」である。 │
│こころは個々の自分を形成し、同時に自己を超えたいのちの総体 │
│すなわち万生万物と通じており、次元を超えた一切の宇宙と通じ │
│いている。 │
│ 魂の遍路を通して見つめているものは“個”と“全”である。“個” │
│は現象であり、“全”は生み出す先験、すなわち次元を超えた本不 │
│生である。個は個別化であるが、自分ファーストなる分断化では │
│ない。“全”は個の全体主義による支配ではない。魂の遍路におい │
│て映し出されるものは個々のいのちの刻々の人生であるが、それ │
│を観ているのは生み出した当のもの、すなわち次元を超えて流れ │
│ている本不生である。そして、そこでいつも問われているのはや │
│「自我」と「欺瞞」の問題である。 │
│ この章では、あらゆる人間が抱える“自我の影”を直視する自己 │
│凝視こそが、自我を超える、魂の本不生の響きを感受し、気づき │
│の明澄性をもたらすものであることを示そうとしている。 │
└─────────────────────────────────┘
┌─────────────────────────────────┐
│〔重要語の補足〕 │
│ 自己欺瞞:自分自身を偽り、真実から目をそらす心の働き。 │
│ 魂の遍路:死後の旅ばかりではなく、“いまのいのち”を直視す │
│ 歩み。 │
└─────────────────────────────────┘


  紺碧の空に
毅然と独り立つ真白き高嶺を
仰ぎみる
 石香呂
 ただ ひたすらに おのが魂の遍路を 見つめたり


  魂の遍路において常に問われる問題があった。
それは、
  あらゆる関係性を通して表れる自我の問題
  特に
自己欺瞞の問題であった。
自己欺瞞とは、
自己を欺くこと。
自己を偽ること。
この欺瞞は、自我の野心や
  自己逃避から生じている。
それがため、自己欺瞞は、
最も人類を苦しめてきた問題である。


  この現象界では、
  自我が主体化することで
  内的にも外的にも孤立化することで
  自己欺瞞を起こす。
  すなわち、自己欺瞞は孤立化した自我の影である。
  しかし、この現象界では、
  この自己欺瞞を直視することが最も難しい。
  何故なら自我に閉塞し、
  その自我を護ろうと躍起になるからである。
  たとえ、他者の欺瞞を見抜き批判すれども
  自分の欺瞞性を見抜き、
  欺瞞から自分を解放することが最も難しい。
  しかし、その自分を
  あるがままに自己凝視し、欺瞞に気づくことで
  自己の欺瞞の問題は消え去る。
  これは、「気づき」がいかに根源的な「こころ」のメカニズム  であり魂の遍路の構造を支えるものであるか。奇蹟と言わざる  を得ない働きであろう。
  よって、魂の遍路は時別なものの修行のプロセスではない。
  「こころ」を持つものが自分と世界の関わりを
  あるがままに自己観察することにあり、
  これは一切の“いのち”に自ずから具わった働きである。
  「こころ」とは何も人間の心理的働きばかりを指すものではな  い。
  いのちのコミュニケーションは
  万生万物が持つ「対話の原理」にある。
  すなわち「普遍的なこころの働き」である。 
  それゆえ
  覚者ブッダが人々に対し、先ず、自己を見つめよと促された。


  さて、人間の苦悩の大半は、この普遍的なこころを理解せず、  自己中心化へ閉塞する自己欺瞞から来ている。
  自己中心的自我の閉塞性の最大の問題は、
  局所化した個が不完全に陥ることである。


  しかし、注意して欲しい。
  「個々のいのちは不完全なるものからは生み出され得ない」
  ということを。
  どんな素粒子も原子も分子も鉱物も有機物も植物も動物も
  惑星も銀河宇宙も大宇宙も無数に展開する宇宙も
  ダークマターもダークエネルギーもさらに空なる本不生も
  局所化する宇宙も拡大する宇宙も
  完全なる個すなわち小宇宙であり、完全なる大宇宙であって、  “個”と“全”は相即不離であること。
  それで初めて本不生が新生創造しているということである。
  一見、世界は自我による分断と破壊により、
  いとも簡単にいのちを抹殺しているかのようであるが、
  「いのち」とはそもそもそういった次元を超えた
  深いところから湧き出すものであり、
  天地自然や人為による破壊を超越している。
  しかし、いのちの本質はこうした破壊と創造による
  生滅の現象を無視しては顕現し得ないことも事実である。


  したがって、
  魂の遍路では、
  この狭隘な自我の問題を克服しなければならない。  


  人類はこの自己欺瞞性に深く気づかなくてはならない。
  これは、現代においても歴然とした事実である。


  自己凝視が何よりも大切なことであることは、
  魂の遍路に映し出されるものが
  あるがままのものであるが、
  その自分をあるがままに見るものが
  自分を超えたまなざしであるがゆえに、  
  自己欺瞞を超えたあるまなざしであることにある。
  したがって、
  自分をあるがままに凝視するとは
  自己分析したり、自己を評価したり
  自己を裁くこととは異なる。
  あるがままの自己を「直接みる」ことである。


  あるがままの自己を観ることを妨げるものは、
  蓄積してきた経験や信念や信条に頼ろうとする
  孤立した自我の欺瞞性にある。
  これに気づくこと自体が、自身が、本来、
  自我を超えている証である。


  それゆえ魂の遍路の問題は
  先ず、いかに自身が自我に閉じ込められているか
  を凝視する内観として現れる。


  そう導くのは、そうした個々の自我の構造を超えた
  本当の自分自身である。
  本来の自分とは
  狭隘な自我の偏見に縛られない
  本不生から刻々と溢れ出る
  天真爛漫ないのちの新生創造の営みである。
  かけがえのないいのちの生が紡ぎ出す
  魂の遍路である。


  覚者ブッダは
  自身及び世界の苦悩をあるがままに直視せよいわれた。
  苦悩を直視するなかで
断絶の孤独に陥ることなく、
  一切の激変の只中にありながら、
  あの犀の角の如く、ただ独り立つものである、
  カイラス山の山容の如く
  紺碧の空に毅然と聳えたつ
  唯一無二のいのちがどのようになっているかを
  直視しなければならない。


  深い悲しみがなければ、
  人は自我の無益さ非業さに気づけないのであろう。
  これが
  一切の関係を通して
  自己を見つめる魂の遍路の中核なのであろう。

第三輪:本不生の源泉

第三輪:本不生の源泉

┌─────────────────────────────────┐
│ひとこと │
│  ここでは、この書の中心である「本不生」の法理を明確に示し │
│ます。魂の遍路の根本構造を示します。 │
│ 生滅の現象の背後にある“いのちの源泉”を見つめます。 │
└─────────────────────────────────┘


┌─────────────────────────────────┐
│ 〔重要語の補足〕 │
│ 本不生:生滅の枠組みが成立する以前の“先験性”。 │
│ 非生非滅:生まれる・滅するという概念を超越する実相。 │
│ 天地を貫く中軸:カイラス山が象徴する“この世とあの世を │
│ つなぐ光の軸”正反回転する三角四面体のトーラス構造。 │
└─────────────────────────────────┘


「源流 今に新たなり」
まさしくカイラス山の四源流と響き合う“本不生の源流”
 そこにあり



  龍雲には人生を通して
もっとも慎重に、
もっとも大切に扱わざるを得なかった「問い」があった。
それは、
「本不生」
であった。
  それは生死やいのちのいとなみに関する問いであった。


しかし、この問いにたいする重要な応えは、
  龍雲が辿った宗教的な学びの
  更に奥にあるものであった。
  しかも、それは、自分自身の問題の中にあった。
  つまり、未熟な自身であるからこその問題から導き出された。
  いかに探究を重ねても
  自己のあるがままの問題を無視しては
  至り得ないものであった。
  知識や概念に基づくあるべき姿にではなく、
  自分自身の自我の中に、苦悩の中にこそ
  本来のものに向かう自分の響きに遭遇すべき機会があった。


  しかし、自己欺瞞はこの苦悩に蓋をするようなものである。


  自己をあるがままに見つめる。
  これこそが、
  魂の遍路である。


 1. 「不生不滅」ではなく「非生非滅」


仏教ではしばしば漢訳の「不生不滅」という言葉を目にする。
しかし、この妙理は、
文字通りの「不生不滅」ではない。
  なぜなら
 「不生不滅」と言った瞬間、
われわれは、すでに
“生まれる/滅する”という枠組みの中に閉じ込められている。
  このことは、
  そもそも、釈尊が指摘されたことであった。
  釈尊によれば
本不生とは、
その枠組みそのものが成立する以前の「先験性」にある。
これは、次元を超えた“源流”ということである。
「非生非滅」とは、
生と滅の否定ではなく、
「生滅」のカテゴリーの外にあることである。
生滅を超えているがゆえに
  われわれは把握し得ない。
  しかし、把握できないのだが
  空っぽということではない。


  生滅は現象であるが、
  本不生は先験であるので、
  生滅の次元を超えている。
  喩えると
  明滅する電球の奥から流れこむ電気のようなものだ。


 2. 本不生は“創造的源泉”である


  ブッダ親説によれば
本不生は
  先験であり、把握されざるものである。
本不生は
刻々と新生創造(新創)するいのちの源泉である。
過去にも未来にも属さず、
ただ「いま」この瞬間に湧き出す
  全き新しい
  いのちの源泉である。


これは、龍雲が学んでいた真言宗の二箇法要の
  『祭文』の一節で、先徳が、
  「源流 今に 新たなり」と表現されているものは、
まさに、この本不生を指している。


魂の遍路において
  最も大事なことは
魂の遍路が源流を探し求める旅というのではなく、
魂が源流から刻々と新生創造(新創)されていることを
  自覚することにある。
  光りもとめて幾星霜ではなく、
  もともと光りそのものであることに気づくことにある。


  先験なるがゆえに
  本不生は
  生滅を超えた
  源泉であり、
  そこから
  いのちが湧きだし
  本不生そのものが
  魂の遍路を歩む。
  それがわれわれ自身であり、
  生死を超えて生きる魂であり、
  それが
 「いのち」実相なのである。





  おお!それにしても、なんと!
  カイラス山よ!
  汝は まさに
地球の元底から湧き上がり
  源流のいのちとなって
  刻々に現象化している。
  その奇蹟は
  紺碧の空に
  毅然と独り立ち
  四源流を溢れ生みだし
  大河となり、大海に至る
  その いのち
  ふたたび天空に舞い上がり
  孤高のカイラス山の頂きに
  真白き雪となり舞い降りる


  まさにカイラス山は
  天地創造の営みによる聖容であり
  生死を超えたいのちを刻々に創造する
  当体を象徴している。



3. ブッダ・龍樹・空海の本不生



仏教の源流である
  ブッダの縁起、
龍樹の非生非滅、
空海の阿字本不生。
これらはすべて、
あの『源流 今に 新たなり』
であった。


そしてその源流は、
幼い頃から
  魂の奥底で響いており、
  無意識に立ち上がっていた
  あの碧空に毅然として独り立つ
  真白き高嶺の山容であった。


まさに、いま、ここに立つ
  カイラスの山容であった。


  カイラス山と四源流は
本不生の見えざるエネルギーが 
  地球上に幾億年の歳月を経て
  新生創造(新創)した
  紛れもない奇蹟の山である。


この毅然として「独り立つ」
  これが  
  あらゆる魂のいのちの本質である。


  個々のいのちも、
すべてのいのちも、
紺碧の空に、独り立つ
  真白く光り輝く本不生であるのだ。 


  これは
  龍雲が人生で奇しくもめぐりあった
萬歳楽山の不可思議なる響きも、
アルナチャラの氷像の山のの不可思議も、
ボロブドゥールが指し示す光り輝くものも、
氷の聖像マカバに現れた三角四面体の幾何学体も、
供養の場でしばしば目撃する魂の往来の姿も、
  しばしば、龍雲の瞑想中に立ち上がる
   紺碧の空に毅然と独り立つ真白き霊峰も、
“カイラスの清浄なる山容”であった。


  その山容から聞こえる響きは
  確かに
龍雲の人生の魂の遍路の元底に響く
  あの響きであり、
  それは、いつも
  黙想を照らすものであった。


  すべてのいのちは、
本不生の源泉が現象として立ち上がる
  瞬間を示す。




4. “この世とあの世”を超えて貫く本不生


本不生の源泉は、次元を超え
この世とあの世を分けていない。
肉体は滅びても、
魂は消えず、
魂は滅びても、
本不生は消えない。
本不生は、生み出すものゆえに
  把握されないが
  あらゆるものの新生創造(新創)の源になっている。
本不生は、
次元を超えた源泉でありながら
  源流となってあらゆるいのちを育む。
本不生が生み出すいのちには
  この世とあの世の断絶は無く
この世とあの世を超えて貫く
本不生のいのちそのものの新生創造(新創)する世界である。
それは、まさに、
  カイラス山が“天と地を貫く軸”
として示すものである。


5.  “いのち”は本不生の源泉を刻々に汲む


本不生の源泉を汲みとるとは何か。
  これは
特別に修行して得られるというものではない。
それは、
いまこの瞬間に与えられている
  “いのち”のいとなみを全うすることにある。
  なぜなら
  いのちは本不生の源泉からもたらされているからである。


  したがって
本不生の源泉を刻々に汲むとは、
過去に逃避せず、
未来に逃避せず、
大義に逃避せず」、
幻惑に逃避せず、
欺瞞に逃避せず、
ただ、あるがまの天真爛漫ないのちのままに
今に、ここに 新たなるいのちとしていきることにある。
  しかも、この「いのち」生死を超えた本不生のものである。
  生死のどこにあろうとも
  ただひたすらに
本不生の響きに、いのちの鼓動に耳を澄ませ
  いきること。
  それが魂の遍路である。
そのとき、
魂は本来の光に目覚め、
  世界が耀きに満ちていることに気づく。
  それがブッダが語る
  「自身の光りであれ!」ということであった。
  ブッダが遍照金剛となられたように
  一つ一つのいのちが遍照金剛なのである。


《第三章の結び》
本不生とは、
生滅を超え、
去来を超え、
あの世この世を超え、
アートマンやブラフマンを超え、
唯識や唯物を超え、
ただ、刻々と、新生創造(新創)する
いのちの本流である。
  魂の遍路の奥で
絶えず響いていたものは
  まさしく
  本不生であった。

第四輪:魂の遍路の体験

第四輪:魂の遍路の体験


┌────────────────────────────────┐
│ひとこと │
│ ここでは、龍雲が人生で実際に遭遇した「本不生の現象化」 │
│ を示します。 │
│ 萬歳楽山、氷の聖像、枕経の黙想、ボロブドゥール │
│ これらはすべて第三輪で示した法理の“証拠”として位置づけら │
│れるものである。 │
└───────────────────────

萬歳楽山・アルナチャラ・ボロブドゥール・氷の聖像
すべては“カイラス山の予兆



  これまで見てきたように
魂の遍路とは、
抽象的な概念や、
宗教的な信念の産物ではなく、
いのちの深層で実際に起きている
  生死を超えた現象そのものをさしている。


  龍雲の人生には、それを示す
いくつかの決定的と思われる兆しがあった。
それらは、不思議ではあるが
  現実の世界と呼応して現れた
言葉や概念を超えて「現象の事実」として顕れた。
これらは。
「本不生の現象化」であり、
意識の変容をうながすものであった。


そして、ついに、龍雲は今、
  ひとつの霊峰を目撃して
衝撃をうける。
  なんと!この山は実際に存在してたのだと・・・・。
これまでの不可思議な体験はすべて、
このカイラス山を指し示しているようであった。


  カイラス山を初めて目撃したとき、
しばしば 龍雲の 黙想のときに 立ち現れる
紺碧の空に毅然と独り立つ真白き霊峰
  “清浄なる山”そのものの実在性を確信した。


1. 萬歳楽山の不可思議なる響き


ふとしたことから
  萬歳楽山に導かれた不思議な経験。
  見えざる響きが指し示す
天衣無縫の天空にかかる月と
悠然と天空をわたる鷲と
そして、萬歳楽山の山頂で感受した
  壮大なビジョン。
  地球の中心より、
  天空(宇宙)へ上昇し、
  地球(大地)へ下降する
  龍の如き光りのエネルギー
  何のへんてつもない凡庸な低山だが
  全山挙げて、ある不可思議な響きを発し、
  龍雲はこの山を通して、初めて、魂の遍路の実相を感受した。  地震除けの山として信仰されてきた山なれども
  なによりも
「気づけ」「気づけ」と 
  全人類の意識の変容をうながす山そのものであった。


  龍雲は、この山に導かれながら
底知れぬ深みから
  天空にわたり 
  圧倒的な沈黙の響きとともに
  いまここに
般若理趣の 
  風を吹かせ
  木々の葉が耀き揺れつつ
光さす、全き静けさとともに
不動の火炎(正反の三角四面体が回転し、互換重合しつつ)が  上昇し下降している光りの気を黙視したのである。
  まさしく、それは
  天地自然の一切を統べる
  圧倒的な内面のエネルギーを持つ山であった。
自然の美しさを超えて
  山の沈黙を超えて、
本不生の源泉が湧き上がり、
  天空と大地が深く互換重合する
  あの霊妙なる“頂き(山)”を映しだしていた。


今にして思えば、
萬歳楽山は
龍雲が後に知ることになる
清浄なるカイラス山と光り輝く遍照金剛に導く
  “兆し” であったのかもしれない。
  このとき予兆は他にもあった。
  龍雲の元に450年ほど前のチャクラサンバラが
一見、何の脈絡もなしに龍雲の側に納められたのだが、
  龍雲は、このときもその深い意味を理解せずにいた。


2. 氷の表象 三角四面体


龍雲の寺の小さなつくばいに何度も現れ続ける”氷の聖像”
  いまにして振り返りみれば
  そのすべては、
  地上のあらゆる混乱をなんとかおさめようとする
  本不生の働きを映しだしているかのようであった。
小さなつくばいに立ち上がる
  如来、菩薩、龍神、アルナチャラ山、
不動の利剣、三種の神器の太刀、
大天使の翼、三角四面体
これらの氷の聖像は、
  すべて地球上に起きる異変の必然性を予見している本不生そ   のもの存在を現象化させていた。
  これは、すべて、紛れもなく、物質的現象の事実として出現し  いてきた。
  まさに、現象界と本不生は断絶していないことを伝え、
  龍雲が辿り着くであろうあらゆる宗教的象徴を
  具現化して導かんとする超越的意思の働きであった。
これらの現象化には、すべて、全く、人の手が加わっていない。
  自然現象を通して、不可思議にも出現してきた。
  明らかに、幻影でもなく、幻想でもなく、事物として
自然の現象として、立ち上がってきた。
  聖像出現という現象化が、神話や伝説ではなく、事実として
  見えざる世界からの刻印であるようにして立ち上がってきた。
  龍雲は、この現象の前にして、
  不可思議なるものの臨在性を否定できなかった。
  偶然やたまたまだとはいえな臨在感があった。


そして、いまや、龍雲は、その形象が、
  すべて、驚くほど
あのカイラス山の三角四面体の山容と酷似し、
響き合っていることに驚きを禁じ得なかった。
まるで、これまでの不可思議なる氷像は
  すべて、
地球の数億年前の造山運動によって立ち現れたカイラス山、
  この霊峰が指し示す本不生に気づけといわんばかりに
  氷の姿をかりて聖像が次々と
  つくばいに具現していたのかも知れないと思った。



3. 氷の表象 アルナチャラ山


  更に
  寺の小さな蹲に立ち現れた  
  アルナチャラ山とシバ神の氷像を見るまでは、
  このときも、龍雲は、
「アルナチャラの山」そのものを全く知らなかった。


  だが、
そのアルナチャラ山の存在を知るやいなや、
龍雲の魂の遍路においては
  特別な意味を持つ山であったと気づかずにはおれなかった。


すなわちアルナチャラとは
  龍雲に人生に不可欠であった不動明王アシャラノーダであり、
内なる煩悩を焼き尽くす内護摩の本質「自己凝視」であり、
次元を超えた光り輝くものとの加持感応道交を意味していた 
  天地創造のエネルギーであり、
万物にいのちを吹き込む母体
  アルナチャラの強大な互換重合する光のエネルギーが、
まさに本不生の光りのエネルギーそのものであった。
  つくばいに現れた氷像は
  まさしく、このアルナチャラ山を指し示していた。
  不動明王は
  幼い頃から法縁のある寺を通し
  龍雲の魂の遍路の導き手として現れていたのである。


  いまにして思えば
  このアルナチャラ山は、
龍雲が後に知ることになる
  本不生の根源
霊峰カイラス山の“光りのエネルギー”
に共振しているものであった。


カイラス山は、
氷雪の山でありながら、
その内奥には
万物にいのちを吹き込む次元を超えたエネルギーが
  交差し、互換重合する三角四面体の現象化である。


  アルナチャラ山もカイラス山も、
  本不生の光りエネルギーが現象化する場であり
  本不生の源泉を示す山である。


まさに、シバ神やアシャラノーダの名を冠する
  アルナチャラは、正反回転重合するの光りの場であり、
それはまさしく遍照金剛
  すなわちマカボダラ=マカバの示現といえるであろう。


4. ボロブドゥール 立体曼荼羅


これもまた、うかつにも、龍雲は
  栂尾祥雲の『理趣経の研究』を開くまで
ボロブドールの寺院遺跡のことを全く知らなかった。


それを知るきっかけとなったのは、
  ある枕経のときに、精霊が清浄なる山に分け入り、
  階層状に沿って山道を登り、
  やがて山を右繞し、
  礼拝(人生を内観)する姿を見たことからだった。


  不思議なことに、この時期、
たてつづけに三名の精霊の同様な光景を垣間見た。


清浄なる山に映し出されたその歩む姿は
  まさに
  その人の魂の遍路を示していた。
まるで
  前世・今世・来世を映し出すかのように、
  地獄の苦悩に満ちた世界から、人々ともに過ごしたこの世界。
  そして、やがて、安らかない浄土に赴くための
  菩薩や如来の慈悲の光りによる魂の浄化をはかるかのような   その人のそのものの内観であった。
  そこに展開されるものは
  あるがままに自己を観察する姿であった。


  この姿を目撃した龍雲は、ふと、
萬歳楽山と理趣経が深く関連していることを
  感受していたが、
  死者の内観を垣間見て、
「魂の遍路と般若理趣経」は独自に、深いつながりを持つ
  ものであることを直観した。


  龍雲に最初に般若理趣経を伝えた阿闍梨は
  龍雲の恩師となる青木融光大和上であった。
  しかも、龍雲が初めて触れた仏教経典がこの理趣経であった。  しかし、うかつにも、龍雲にとっては
  般若理趣経は非常に高邁な秘典で、
  なんとか読誦するだけで精一杯のものであったにすぎない。


  一連の死者の内観を垣間見て理趣経が気になり
  奇しくも、
たまたま取り寄せた古書の
  『理趣経の研究』を開いた。
すると、そこに、なんと、
  ジャワのボロブドールの寺院遺跡の古写真があった。
  ここには 
 「釈尊の覚醒の物語が魂の遍路として」
  階層状に描かれている。
釈尊は、過去・現在の遍路を通して、やがて遍照金剛となり、
大楽金剛・金胎両部不二の大日如来となり、
  本不生の根源である光り輝くものとなられたとある。


ボロブドゥールの寺院遺跡を見て、龍雲は、
ブッダの五相成身観が
  このボロブドールの寺院遺跡の要諦であることを
  直観した。
  今日でも、このことを知る学者は限られているという。
  いや、むしろ大半は
  ボルブドールの寺院遺跡は釈尊の伝記をモチーフにした
  仏塔ぐらいにしか理解されていない。
  だが、釈迦牟尼仏が
光り輝く大日如来へと成る
魂の遍路の構造であることは
  最近の研究者によっても明らかにされている。
その立体曼荼羅の構造は、
後に知ることになる
カイラス山の“地球曼荼羅としての本質的姿”である
  と同時に、
  あらゆるいのちの魂の遍路の構造
  如実に示しているのであった。


まるで、
人類が1,300年前に築いたボロブドゥールは
天地が6億年前から1億5千万年前にかけて
  地球のヒマラヤ造山運動によって
  出現したカイラス山の“写し”
であるかのようでさえあるのだ。


5. 供養の場で見た魂の往来  天地を貫く光の道


忘れもしない。
  枕経や葬儀に臨んでのことだった。
この供養の場で、
龍雲は、これまでも、何度か、
こころを通して魂の往来を垣間見てきた。
しかし、このときの一連の黙想は
  一瞬のなかにかなり明確に立ち現れたのであった。


  それは
  迷いの中で光を探し、
理趣経の響きに触れる瞬間、
静かに道を見いだす魂の姿であった。
その光の道は、
この世とあの世を貫く魂の
一本の糸のような光の道であった。
  しかし、
  生死を超えている続くこの道とは、一体、何か。
龍雲は深く問わざるを得なかった。
あの世とこの世をつないで、なお続くこの道とは何か。
  魂、個々の魂の道というものがあるのであろうか。
  見るとそれは、魂の境地により大きくもなり小さくもなる。
  上昇するものもあれば下降するものもある。


  それにしても
  いたって時空的であり、あらゆる面で地上的である。
  龍雲は、問うた。
  これは、やはり、自分の幻影や妄想ではないのか?


  しかし、これは表現するものの条件性なのである。
  見えざるものを見えるといえば嘘になる。
  ブッダはこの虚妄性を厳しくいさめられている。


  とはいえ、こうした虚妄の法を超えて、圧倒的創造の法は
  天地創造を含め、あらゆるいのちを生み出す創造の源である。
  これらは次元を超えていて見えざるものだが、
  現象化する実相事実は誰も否定できない。
  そのことを如実に示す姿が、
  龍雲にとっては、カイラス山であった。  


  龍雲が感受した魂の光の軸は
  龍雲が後に知ることになる
カイラス山の“天地を貫く中軸”に通じている
  はかりしれないものではあるが、
  龍雲自身のいのちの軸
  魂の光の道であると思わざるを得なかった。



《第四章の結び》



龍雲の人生に現れた
象徴的な体験のすべてが指し示すもの



●萬歳楽山の不可思議なる響き
●アルナチャラの氷像の山の不可思議
●ボロブドゥールが指し示す光り輝くもの
●氷の聖像マカバに現れた三角四面体の幾何学体
●供養の場でしばしば目撃する魂の往来の姿


   これらはすべて、
カイラス山の響きが
龍雲の人生に先んじて、いつも響いていたものであった。
龍雲はこれらの山々を知る前に、
すでにその山の働きの導きを受けていたのであった。

第五輪:般若理趣の光

第五輪:般若理趣の光

┌─────────────────────────────────┐
│ひとこと │
│ ここでは、般若理趣の響きは、カイラス山の光と同じ │
│「本不生の源泉」であることを示します。 │
│  魂の遍路が、理趣経とカイラス山の曼荼羅構造において統合 │
│されます。 │
└─────────────────────────────────┘




  般若理趣の光は、
  カイラス山の光と同じ
“本不生”の遍路道



龍雲の人生の奥に、
いつも 理趣経 があったことに気づかされたのは
苦しみに苛まれているときであった。


般若理趣経は、確かに、修行僧として
恩師より授かった法脈であり、
供養の場で魂を導く灯火であり、
龍雲自身の魂の遍路を照らす
確かな法燈であった。


しかし、龍雲は、
  長いこと、この経典は、真言の奥義やサンスクリットを究めて  いなければ理解できない経典であると思ってきた。


だが、龍雲が人生の窮地に立ったとき、
  そっと、
  傍らに立ち現れたものは、この般若理趣経であった。
  龍雲は気づく。
  自身の魂の遍路の縁として、
  この般若理趣の響きがいつも傍らで響いていたことに。
  生死を超え、自他を超え、善悪を超えて響きわたる
  この言い知れぬ響きに
  龍雲は、暗闇に光を見るような思いがした。
それ以来、龍雲は
理趣経は経典というより
本不生の源泉から湧いてくるいのちの響き。
  妙なる般若理趣の響きがいのちに光りをもたらす。
そして、生まれる前からも、今も、そして死して後も、
生死を超えて、この光の響きが、魂の道標となり
  魂の道を照らしだす。
  愚かにも、龍雲は、窮地に立ってはじめて
  この光りに目覚めたようなものであった。
  しかし、この光は、ずいぶんと探し求めてきたものだったが
龍雲の人生の元底で響き、いつも側にある、
  あの深い、生死を超えたものであった。


  それは、また、龍雲の内面に
あの紺碧の空に毅然として聳え立つ
  ”聖なる山”自身として立ち上がっているものであった。
その光は確かに
龍雲の愚行が起こした
   破滅の危機に即して立ち現れ、
   ただ、自らの罪そのものに真っ直ぐに向きあえと
   こころの奥から
   毅然たるがごとく湧き上がってきた。  
   一切を包含している光そのものであった。



1. 理趣経は「色即是空・空即是色」を響かせている


般若経典は「空」を説く。
しかし、「空」や「不空」という概念ではなく
  「本不生」そのものを指し示している。
本不生は「先験なる」が故に把握できない。
  故に「空」と表現されるが、字義通りの空っぽや、
  よく言われる「無」でもない。
  本不生は先験であるが
  その超越した次元から
  生み出すものである。
そこから光りとなり、現象化する。
  それを「色」という。


故に空と色は互換重合している。
  それを「色即是空・空即是色」という。
  見えざる世界と見える世界は乖離しているのではなく
  互換重合している。
  それが「般若理趣」であった。
  すなわち、本不生と現象が刻々と互換重合していることを
  「般若理趣」は響かせている。
空の静寂のさらに奥にある
本不生の光は
生滅に非ず、
断常に非ず、
一異に非ず、
来去に非ず。
この「非」は、
否定ではなく、
生滅の次元を超えた本不生と光の互換重合の働きをさす。
その光は、
龍雲が後に知る
この大宇宙の希有なるカイラス山が、
  地球上に現出させた般若理趣の当のものであると・・・。


2. 漢訳経典の響き


不空三蔵の漢訳
  『大楽金剛不空真実三摩耶経』は
  恩師を通して与えられた経典である。
そのまま荘厳なる響きを発している光の経典であるが、
しかし、
字義通りに解するだけではその響きは感受できない。
  その響きは文字を超えているところから響いている。
  このことは
  魂の遍路に気づいた供養の場で幾たびか気づかされてきた。
確かに、
  般若理趣の響きは、生死を超えて、
  すべての魂に分け隔てなく響いている。
  誰の心にも、魂にも深いところで響いている。
あの世の魂も響きを受け取るし、この世の心も響きを受け取る。
  いま、ここに、響く、般若理趣の響きを
  いつでも、どこでも、
あらゆるいのちの元底に響いている般若理趣。
あのジャワのボロブドールや
  カイラス山の“光の輝くものである遍照金剛” が
  本不生の般若理趣を響かせている。



3. 般若理趣は“魂の遍路”を導く


理趣経は教義を超えている「光の経典」である。
理趣経は、
魂の遍路を導く 。
迷いの根を照らし、
魂が本来の道を取り戻すように。
供養の場で理趣経を読誦するとき、
迷える魂は
その響きに触れ、
静かにおのが道を見いだす。


  龍雲はいつも
“山の光が魂を照らす”
という感覚を覚えていた。
それはまさしく、般若理趣の響き、
  紺碧の空に毅然と聳え立つ
カイラス山の光耀く姿であった。


4. 魂に届く「響き」


旅立った魂は、この世の五蘊を超えた世界にいる。
この世の波動をこえて光を観受する。
魂に届くのは、
概念ではない。
こころが発する響きである。
魂の響きそのものである。
響きとは、
言葉の背後にある
本不生の源泉の振動
である。
不生の仏心ともいう。
般若理趣の響きは、
その振動にある。
そしてその振動は、
龍雲が後に知ることになる
カイラス山の“光の振動”
と同じであった。
魂はその響きに触れたとき、
おのれに光を見る。


5. 般若理趣は「この世とあの世」を照らす


般若理趣の響きは、
この世とあの世を照らしている。
その働きは、
天地を貫く一本の軸のように、この世とあの世を貫く。
そして今、
龍雲は気づく。
その軸は、
龍雲が後に知る
カイラス山の“天地を貫く中軸”
と同じ働きである。
般若理趣理の光は、
カイラス山の光とひとつであったのだ。



6. 龍雲版・理趣経抄


  龍雲が先に「龍雲版・理趣経抄」をまとめた理由はただひとつ。
般若理趣の光が、
いまを生きるすべてのいのちに
最も大切な響きを発しているからであった。
その般若理趣の響きは
  すべてのいのちの元底で響く、あの
“聖なる山の頂きから届く、光り輝くものの本不生の響き”に
に全く呼応しているのである。


《第五章の結び》


理趣経は、
単なる経典ではない。
理趣経は、
本不生の源泉が
響きとして立ち上がる光の経典
である。
そしてその光は、
龍雲の人生の元底で耀き響き続ける
“清浄なる霊峰からの光”
であった。
その光は、確かに
あらゆるいのちの遍路を導いている。



【頌韻】


碧空に聳え立つ
清浄な山より
般若理趣の
光溢れて
このいのちの
  源流
いまここにあり

第六輪:魂の遍路抄


┌────────────────────────────────┐
│ひとこと │
│ここでは、魂の遍路がどのような構造を持ち、 │
│なぜ一本体五分身・五相成身観・見えざる導きが不可欠なのか │
│を示します。 │
│龍雲が人生を通して否定できない │
│「魂が導かれているという事実」示します │
└────────────────────────────────┘


ボロブドゥールのパンテオン(寺院遺跡)には、
人間としてこの世に生を得られた釈尊が覚りを開かれる魂の遍路が記されている。
その重要な魂の遍路の段階と悟りの構造が、
密教の五相成身観として刻まれている。


そのあらましは次のようである。


菩提道場でアルナチャラ(不動三摩地)に入られた釈尊の前に、
どこからともなく毘盧遮那仏(一切如来)が姿を現し、
五段階からなる自己凝視の覚醒へと導く。
釈尊は自らに具わる如来性に目覚め、
一切如来と平等なる遍照金剛(金剛界如来)として成道され、
やがてブッダとなられ、
本不生の当体・光り輝くものとなられる。


ここで大切なことは、
「本不生の源泉より光り輝くものが流出する“下降のプロセス”」 と、
「物質として顕現した個々のいのちが自己凝視を通して本不生に覚醒する“上昇のプロセス”」
この両者こそが魂の遍路の要諦であるということである。


さらに注意すべきは、魂は人間だけに限られないこと。
有機物・植物・鉱物、分子・原子・原子核・素粒子のミクロ宇宙、
惑星・銀河・大宇宙のマクロ宇宙に至るまで、
すべては自立した個々のいのちであり、
それらはすべて心と魂を通してつながっている。
人間の狭い言語や認識の範囲では理解しがたいが、
一切は魂の遍路にある。
なぜなら、一切は本不生の顕現なるが故である。


さらに重要なことは、
釈尊を導く本不生の光り輝くブッダが、
釈尊・世自在・金剛手の三位一体として働き、
さらに大日・阿?・宝生・弥陀・不空成就としての
**一本体五分身の魂の構造** を具えていることである。


これは、宇宙におけるダークエネルギー・ダークマター・物質の関係にも似ている。
見えているものがすべてではなく、
母体となる見えざるもの、
さらにその母体を現出させる本不生が、
互いに密接に重合している構造である。


魂の遍路は自己凝視にある。
自己凝視とは、見えざる世界との重合性の響きを享受することである。


特に人間は、魂として一本体五分身の光りの構造にあり、
これらが互いに守護し指導する一体構造にあることを、
ここで明確にしておきたい。


龍雲は幼少の頃から、言葉や響きを超えて、
魂の奥からもたらされる導き手の見えざる存在を感じてきた。
龍雲らは、あの氷の聖像のように、
見えざる真実を物質化して具体的に導く。
なぜなら、龍雲は物質宇宙に顕現している唯一の魂であるからだ。


中には、こうした守護・指導の魂の兄弟と自由にコンタクトをとれる者もあろう。
しかし、次元を超えた魂の兄弟たちは、
龍雲がその存在を知ろうが知るまいが関わりなく、
心の奥底から「気づけ」「気づけ」「汝自身を凝視せよ」と、
本不生の光りを注ぎ続けている。


これは万人に不変の構造である。
いや、あらゆるいのちはもともとそのような構造のもとで顕現しているのかもしれない。


龍雲は人生を通し、
あの紺碧の空に毅然として独り立つ真白き高嶺の姿を見て、
その独り立つものの背後には、
一切のものが支えとなって龍雲の人生を、
龍雲の魂の遍路を支えていることを、
あのカイラス山に見たのである。


〔結びの詩〕
魂の遍路の いま ここ に
おのがいのちの元底より湧き上がる
本不生の響き
般若理趣の妙なる響きそのままに歩みし魂の遍路道
湧き出るままに  尊きいのち 耀かせしめ給え


魂の
清浄なる山に呼応しつつ
本不生の道を歩みたり。
生まれる前から
そしていまここに
死してなお響きかせたもう本不生。


“先験なる源泉よりあふれる出でる流れ” に
気づくべし 気づくべし。


光り求めて幾星霜
道を照らすひかり
いま ここに あり。


碧空に毅然と聳え立つ霊峰の
光り輝けるおのが
いのちの姿なり。

第七輪:魂の遍路の顕現

第七輪:魂の遍路の顕現

┌───────────────────────────────┐
│ ひとこと │
│ ここでは、魂の遍路の根源構造(第六輪)が、 │
│ どのように現実の供養・修法・寺院曼荼羅・日常のいのちの │
│ 営みとして顕現しているかを示します。 │
│ 魂の遍路が「抽象」ではなく「現実のいのち」として │
│ 息づいていることを 明らかにします。 │
└───────────────────────────────┘



魂の遍路は、
決して抽象的な観念でも、宗教的理論でもない。
それは、いのちの深層で刻々と起きている「現象」であり、
日々の供養、修法、祈り、そして寺院の曼荼羅構造そのものに顕現している。


龍雲が人生を通して邂逅した
萬歳楽山の響き、
氷の聖像、
枕経で見た魂の右繞、
ボロブドゥールの立体曼荼羅、
そしてカイラス山の霊峰??
これらはすべて、
魂の遍路の根源構造が「現象」として立ち上がったものであった。


魂の遍路は、
一本体五分身の構造を持つ魂が、
本不生の源泉から刻々と新生創造(新創)されるいのちを受け取り、
下降と上昇のプロセスを通して光へと向かう歩みである。


そしてその構造は、
この み寺の曼荼羅にもそのまま顕現している。


修法壇に置かれたボロブドゥールのパンテオンは、
魂の遍路の階層構造そのものを示し、
須弥壇の大日如来は本不生の源泉を象徴し、
聖観音・普賢金剛薩?・五大明王は
魂の遍路を守護し導く五分身の働きを示す。


この寺に祀られた諸尊は、
単なる信仰対象ではなく、
魂の遍路の構造そのものが「形」として顕現した
独自の曼荼羅である。


廻向や供養の場で見た魂の往来は、
この世とあの世を貫く中軸の実相であり、
魂が本不生の光へと帰っていく遍路の姿であった。


そして、
龍雲自身の人生においても、このような、
見えざる導き手たちは、
幼少の頃から今日まで、
「気づけ」「汝自身を凝視せよ」と
本不生の光をを以て促し続けている。


魂の遍路は、
誰か特別な者だけのものではない。
すべてのいのちが、
生まれる前から、
いまここに、
死してなお、
本不生の光の中を歩んでいる。


この み寺の曼荼羅、
供養の響き、
修法の祈り、
日々のいのちの営み??
これらすべてが、
魂の遍路を歩むいのちの顕現である。


魂の遍路は、
いまここに息づき、
いまここに響き、
いまここに光り、
いまここに歩まれている。


〔結びの詩〕
魂の遍路は
いまここに
光りとなりて
いのちを耀かす。


本不生の源泉より
刻々と湧きいでる光は
すべてのいのちを
遍照し給う。


この み寺の曼荼羅も
供養の場の響きも
いのちの鼓動も
すべては
魂の遍路の顕現なり。


碧空に毅然と聳え立つ霊峰は
おのが魂の
いのちの姿なり。



結語


魂の遍路とは、
抽象でも観念でもなく、
いのちの深層で刻々と起きている現象である。


本不生の源泉より光り輝くものが下降し、
物質として顕現したいのちが上昇して本不生へと帰る。
この下降と上昇の互換重合こそが、
すべてのいのちに具わる遍路の構造である。


この み寺の曼荼羅、
供養の場の響き、
修法の祈り、
日々のいのちの営み??
これらすべてが、
魂の遍路を歩むいのちの顕現である。


そして、
碧空に毅然と聳え立つカイラス山は、
本不生の源泉が地球に顕現した霊峰であり、
すべての魂が歩む遍路道の象徴である。


魂は、
生まれる前から、
いまここに、
死してなお、
本不生の光の中を歩み続けている。


本書が、
いのちの奥底に響く本不生の光を、
ひとりひとりの魂が思い出すための
小さな道標となれば幸いである。



頌韻


聖峰の沈黙より
源流 湧きいで
今に新たなり


碧空に毅立し
光りとなりて
ここのいのちを
照らしたり


魂の遍路
いま ここ に
湧き上がる
本不生の響きたり


光り求めて
幾星霜
道を照らすひかり
いま ここ に あり


碧空に毅然として
聳え立つ霊峰
そは 
おのが魂の
いのちの姿なり