一、遍照金剛(光り輝くもの)の降臨
龍雲法坐副読本『般若理趣経』
『本不生の理趣なる光りに触れて』
一、遍照金剛(光り輝くもの)の降臨
いま、ここに、本不生の『般若理趣』、光り輝くもの(毘盧遮那如来)の境界が響いている。
普賢金剛の智恵の光りはすべてのものの菩提心となり、本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造の源である。
広大な真理の世界を開顕し、智恵の宝冠を耀かし、無明の闇黒に苦悩するものを鼓舞し、内に秘めたる宝性を顕わにして、「自身の光」とならしむ。
真如の恵眼によって世界を観察し、「不生の仏心」をもって、差別対立を超える平等大悲へと導かれる。
遍照金剛(光り輝くもの)は、あらゆるものの大慈大悲の本不生心を開き、悉く真如の光りとならしめ、いのちあるものの身口意の全行動をして刻々の創造に導かれる。
この遍照金剛(光り輝くもの)が、他化自在天の宮殿に臨在しまして、ブッダ親説「本不生」を指し示された。
他化自在天の宮は、地獄の業火が燃えさかり、疎外され、搾取され、苦悩の激流が怒濤逆巻く世界であったが、そこに、遍照金剛(光り輝くもの)が臨在まして、真理の光りで満たし給うた。
たちまち業火は清らかな五色の光明に転じ、猛り狂う嵐は止み、心地よい微風に、諸ヲがはためき、鈴鐸の麗しい響きに、みな、安らぎを得ることができた。
孤立・孤独に苛まれたるものはみな、清浄珠玉の仏心が内から輝きだして、互いに清らかな慈愛の光に満たされ、あらゆるものが、相和し、清浄で、穏やかで、活気に満ちたものとなった。
遍照金剛(光り輝くもの)は、八十億ともいわれる真如を響かせる菩薩をともなわれていた。とりわけ麗しき光輝を放ちたる菩薩は、八大菩薩と称えられていた。
その八大菩薩とは、
先ず、金剛手菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものが金剛の智慧に目覚め、厳しく自己を見つめ、迷いを克服し、本不生に生きるべく導かれる大菩薩である。
二、観自在菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら清らかな大慈大悲の不生の仏心の耀きであると観じ、不生の仏心ただ一つで生きることを導かれる大菩薩である。
三、虚空蔵菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら豊かな心と無限の宝性(創発性)を見出して生きることをささえる大菩薩である。
四、金剛拳菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら刻々と新たに創造し続ける本不生を体して、停滞することなく生きることをささえる大菩薩である。
五、文殊師利菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして自ら自我の蒙昧な欺瞞性を見抜き、事物の真相をありのままに直視して生きることをささえる大菩薩である。
六、転法輪菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら迷いの根源に気づき、転識得智すべく、本不生の大法輪を転ずるようささえ大菩薩である。
七、虚空庫菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら現象界に刻々と停滞なく流入する本不生の無尽蔵なる大慈大悲を以て天真爛漫に生きることをささえる大菩薩である。
八、催一切魔菩薩大菩薩。この大菩薩は、あらゆるものをして、自ら魔障の欺瞞性を打破し、真如を貫いて生きることをささえる大菩薩である。
遍照金剛(光り輝くもの)はこのような菩薩たちとともに般若理趣の真如を響かせる。その刻々なる創命は、何れの時、何れの処にあっても光り輝く「不生の仏心」である。
【恩寵による大神変加持咒】
ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ
ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ
二、光り輝くものの「清浄の法門」
『本不生の理趣なる光りに触れて』
二、光り輝くものの「清浄の法門」
一切の法門は光り輝くものからくる。 般若理趣の真髄は、浄穢の分別を超えて、あらゆるものが本不生の神泉より刻々に湧き出づる本来清浄の創造活動であること示す。
今、この一切法の清浄なる妙理をもって、十七の清浄の法門を示す。
世間における「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」などは、すべての苦しみの源であり、不浄でいまわしきものであり、仏道修行者はこれらの欲を克服しなければならない。
また、神との合一やエクスタシーを恩寵と錯覚し、「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」こそが神我に至る道であると愚行に堕せるものもあるが、「自我」によるならばこれらはすべて欺瞞となる。
先ず、はじめに「自我による苦楽の構造」に気づくこと。これが、解脱の要諦である。
自我の正体に気づき、その束縛から開放されることによって初めて「妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味」が本不生の法門となるのである。
自我とは五蘊に執着した状態をいう。五蘊による妄見も自我である。自我が蒙昧な愛欲へ導く。
自我による欲望の矢箭に射貫かれると、肉欲に耽けり、愛憎に繋縛される。その最も邪悪なる不浄の本質は、排他的自己中心性、即ち自我にある。我欲にかられ、欺瞞と搾取を繰りかえす。飽くなき欲望、即ち、自己中心的「快楽」を求める。だが、排他的なるがゆえ、破綻を来し、この快楽が「苦」の極みとなる。この故に、修行者は、これらの愛欲を修行の妨げとして斥けるべく修行し、苦闘してきた。
だが、いかに、意図的に自我を取り除こうとしても、意図する者が自我であれば自己欺瞞に陥る。
よって、この自己欺瞞そのものを凝視しなければならない。 即ち自己凝視である。自己凝視とは「如実知自心」である。
先ず、はじめに、自己をあるがままに観察する。蒙昧なる愛欲は、全て虚妄なるものへの執着による自己欺瞞でから起きていることに気づくこと。自己をあるがままに観察し、自我我欲の欺瞞に気づくことこそが、我欲妄念からの開放をもたらす。我欲妄念が自ずと雲散霧消するのである。自我を直視し、自我の蒙昧性に気づく。この気づきが、執着からの解放をもたらす。(注:理屈ではなく、実際に自己凝視することで理解する。)
このように「如実知自心」は、あるがままの自己を凝視することであり、「自我の蒙昧性」に気づき、「自我からの開放」をもたらすものである。
このゆえに、内面性において、「不浄を浄に変えようという意図」は自己欺瞞である。この欺瞞に気づかない限り、いかに厳しい修行積み、覚醒を得ようと努力しても、欺瞞の構造の中にあり、「光り輝くもの」の本然の覚醒は起こりえない。
「光り輝くもの」の臨在は「自己凝視」にある。「自己凝視」は「如実知自心」である。
(注:「如実知自心」において初めて天真爛漫なる「大楽」の境地が開かれる。「如実知自心」が起こらない限り、理趣経が示す「大楽」の本然は理解できない。)
覚者釈迦牟尼仏が最もいさめられたのは自己欺瞞(自我)による執着のことである。不浄は不浄、清浄は清浄。不浄が清浄とはならない、清浄が不浄とはならない。不浄は自我の欺瞞にあり、自我の欺瞞性に気づくことで、本来清浄なる「光り輝くもの」となるのである。
ゆえに、覚者釈迦牟尼仏は光り輝くもの(一切如来)の清浄なる法門、即ち、金剛と胎蔵の大日如来の法門を般若理趣の経えとしては示されたのである。
清らかな菩薩たちよ。汝等は、本不生の神泉より刻々に湧き出づる光り輝くものの創造による調和と安らぎをもたらすものである。
巧妙な欺瞞の構造や、浄穢のこだわりの背後に潜む「我見の罠」に気づき、「光り輝くもの」をまのあたりにし、般若理趣の法門を開かない限り、人類の意識の変革は起こらないであろう。
(注:今さら!なぜこんな難しい理趣経を取り上げるのか。この問いを発する理由はここにある。「万人ひとりひとりの理趣経である」と強く思わざるを得ない。われわれはその初歩の初歩の入り口にたっている。)
「光り輝くもの(一切如来)」は明らかにする。
全てのいのちは、汲めども尽きせぬ阿字本不生の源泉から、こんこんと湧き出る、全き新らしい「不生」のいのちであると。
五蘊による我欲が、その本来の「不生」のいのちで生きることを妨げている。このこと見据えて、次のことがらを観察していく。
まず、はじめに「抱擁」についてであるが、穢らわしいとされるものは、その抱擁の陰にある我欲である自己中心性、搾取性、欺瞞性にある。いかに甘美な抱擁であろうとも、その正体が相手を喰いものにする自我の欲望にすぎないならば、必ず、相手を破壊し、苦しみをもたらすものだ。
しかし、本来、かぎりない慈しみや愛の自然な現れが抱擁となるのであるから、抱擁が相手を破壊するものではない。本然は、本不生と感応同交する加持そのものである。まさしく、慈母の恩愛があらゆるものを育む力となるように。
汲めども尽きせぬ本不生の神泉より刻々に湧き出づる限りない慈悲こそ本来のものである。
一見すると、この世界は種を保存する本能が働く生存競争の激しい世界ではある。しかし、何ものも、本不生から逸脱し、自然の摂理から逸脱することはできない。我欲に走るならば、必然的に自滅の道をたどる。このことは自明である。
さて、次に「ものごとを究めようとすること」についてであるが、これも、我欲がはたらけば、相手を射殺す毒の矢箭となる。我欲がいかに巧妙に探求心を装ったとしても、正体が我欲であるのだから、自己中心の搾取性や暴力性を内包しているのである。
そもそも、「ものごとを究めようとする心」は本不生の神泉より刻々に湧き出づる天真爛漫な創造への探求心の顕れであり、本然のものである。
我欲は、そういった、本然で汚れのない赤心(無垢な心を)を阻害し、ねじ曲げ、暴力化してしまう自我である。
次に「慈愛の触れ合い」についてであるが、自然な心身の「慈愛の触れ合い」も、我欲による身びいきが働けば、搾取である。ゆえに、苦しみとなり、破綻をもたらす。
(注:、般若理趣経を理解するうえで、重要なことがある。それは、「初会金剛頂経における五相成身観」である。それは、釈迦牟尼仏が不動三昧の禅定におられたとき、光り輝ける「一切如来」をまのあたりにして、金剛界を覚られ、「光り輝くもの(毘盧遮那)」そのものとなられ「即身成仏」されたという「如実知自心」のプロセスのことである。
般若理趣経の内容を理解するには、釈迦牟尼仏(ブッダ)の要諦である五相成身観の覚醒のプロセス「如実知自心」を根幹に据える必要がある。
これは、われわれひとりひとりが自己凝視を通して「我欲の欺瞞性に気づくこと」ということにほかならない。
「如実知自心」のプロセスはひとりひとりの責任であり、他者が代われるものではない。不生の仏心が自我の欺瞞性の雲に覆われないよう絶えず潜象と現象(真如の世界と現象界)を通して、万人ひとりひとりが問われているのである。
このように欺瞞に気づくことで、我欲は失せる。我欲に陥る限りは光り輝くものは顕れない。なぜなら、この我欲に気づかなければ、巧妙に欺瞞を隠しても我欲の延長でしかない。そこに気づく。気づけば、欺瞞の雲は晴れて、光り輝くものが顕わになる。不生心が自ずと本流となって顕れ、互いを慈しみ、活かす、清らかな交流となって花開くのである。
そこには欺瞞に基づく渇愛や憎悪や嫉妬や葛藤の苦しみは微塵もない。天真爛漫な喜びと活動があるだけである。)
また、このような自我に惑わされない慈愛の心は、「道を求めて止まないもの」となる。これは、搾取や欺瞞に基づくものとは根本的に異なり、欺瞞性に対しては、厳粛に向きあう。このような厳粛性による勇猛果敢な自己変革の行動は世の中における革新的な活動となって顕れる。自我による思想や理念や宗教などの名の下に虚飾された妄信や狂信などに走ってしまう欺瞞性とは全く異なる。本来の革新の力である。
次に「歓喜」であるが、欺瞞にみちた我欲は、目先の快楽に逃避し、本不生を見失い、欲求不満や不安におびえつつ、果てしなく貪欲と渇愛に溺れていくものである。
しかし、このように自身を滅亡の淵に導くものが我欲欺瞞にあることを、自己を観察することで気づいたならば、自我は消失し、もともとの慈愛の本心が顕わになる。
これはまさに、愛と喜びが本不生のものであり、そのいのちの源泉からこんこんと湧き出づるいのちそのものの歓喜であるからである。自分のためとか、他人のためとかそういった欺瞞の構造とはおよそ無縁な、天真爛漫な生命の本質である。
自我我欲や自己保存の欺瞞性に気づき、五蘊による我見への固執が微塵もなくなってこそ、一切法清浄である本不生の顕現、すなわち、刻々のいのちの源泉を汲むことができるということである。
この世で生かされ生きる「不生の仏心」のいのちの営みにこそ、あらゆる苦難を乗り越え、真理の世界を実現していく、限りない創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)の力が秘められている。欺瞞を離れ、真理に気づき、自身の光りとなってこそ、あらゆるものとともに、喜びに満ちた新たな世界を刻々に創造していくのである。これが本来の我々であり、これこそが菩薩の道なのである。
次に「快楽」であるが、自分を美しく飾りたて、快楽の世界に心を奪われ、肉欲に耽ることは、明らかに修行の妨げとされてきた。
確かに、虚ろな我欲の罠にはまった執着心、渇愛の自己欺瞞は、心を惑わせ、修道の妨げとなる。
だが、自分のこの虚ろな我欲をあるがままに理解し、気づくことによって、その心は鎮まり、本来の天真爛漫な喜びと豊かな心が湧いてくるのである。
このように、本来の自分とあるべき自分とを分離せず、あるがままの自分自身を見つめることで、気づきを深めれば、自他一如の菩薩の本心が顕わになり、真理をもって世界を荘厳し、偉大な法城を建設し、探求と創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)のいとなみを遂げていくのであろう。
これこそが、無限の徳を備えた普賢金剛薩?即ち毘盧遮那佛の本不生から湧き出る世界の創命の力である。
眼に見る世界、耳に聞く世界、鼻に嗅ぐ世界、舌に味わう世界、これら色声香味の感覚より生ずる世界は、事物の五蘊に投影し、記憶に留めた仮象は、虚妄であり、「実体ではない」とブッダは指摘された。
しかし、現象の事物を離れて、本不生の創造はあり得ないことも事実である。
一切法清浄の刻々なる創命は、先験なる本不生(金剛界大日如来)と潜象なる本不生(胎蔵界大日如来)が滞留なく、加持感応同交(金胎両部不二すなわち金胎両部互換重合)することで、森羅万象は現象化している。
この現象化のプロセスは阿字本不生なるが故に、「時空を超越」したところから来ている。
「時空を超越」しているということは、単に、歴時的に刹那滅というのではなく、先験なる本不生の神泉より刻々に湧き出づる新たなる創造は、潜象と現象が互換重合?入し、【六大は無碍にして常に瑜伽にある】がゆえに時空を超越していて、相即不離にあるということである。これが、本不生の法理であり、実相である。
人知を超えた「本不生」の「光り輝くもの」から法報応の「如来の三身」のプロセスを経て、刻々に出現し、型として作用する五蘊が刻々に感受するのである。まさしく、この互換重合?入のプロセスをして五蘊皆空というのである。
この「創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)」をして「般若波羅蜜多の理趣の法門」というのである。
金剛手よ、若しこの清浄世界を見開く、般若波羅蜜多の刻々なる創命に感応するならば、発心から悟りの完成に至る修行の間といえど、また、たとえ、自己の心を動揺させる様々な障害(一切蓋障)や、愛欲より起こる煩い(煩悩障)や、知識より生ずる偏見(法障)や、自己の行為より生ずる様々な悩み(業障)などを積み重ねる迷いがあろうとも、いのちの実相は、過去は過ぎ去ったものであり、未来はまだ顕れてないがゆえに、まさに、「刻々の今にこそ、自己変革の道はある」といえる。
外界の事象は、このように、時空を超越した本不生の「先験より滞留なく今に経過し、消失する」という実相において持続されている。
それゆえ、それは、決して、認識された観念的実体が持続していることではないことをはっきり自覚しなければならない。
先験より滞留なく今に経過し、消失するという実相において持続されているというであるが、確かに、ブッダは、仮相を実体視する認識による「欺瞞」性とその構造を虚妄であると否定された。だが、外界の背後にある先験なる実相を否定されたわけではない。
虚妄ならざる外界の事象は、現象と超論理的潜象(先験なる源泉)からの加持感応同交・互換重合・?入【六大無碍常瑜伽】)して、この現象界に歴時的に時々刻々と、たえず新たに創命するもの(本不生の神泉より刻々に湧き出でるもの)である。
では、外界に実相をもたらす「本不生の先験性」とはいったい何であるのか。
釈迦牟尼仏の親説において否定されるものは虚妄の認識すなわち幻想である。架空の不存在なるものは画餅でしかなく、そうした架空のものと瑜伽(加持感応同交)することはあり得ない。つまり、虚妄なる概念上のものに加持感応しているとすれば、それは妄想でしかない。それは、いかなる神聖なビジョンといえども五蘊に捕らわれた幻想である。これは、自己満足、錯覚、自家中毒状態でしかない。したがって、これらは、いかに偉大なる宗教や修行法であると喧伝されようとも、何ら本不生における真実、瑜伽性とは全く無縁のものである。
だが、ここで、謬ってはならないことは、事象における先験なる本不生と現象が相即不離の瑜伽性(感応同交?入)にあることは否定され得ないということである。同じ見えざるものといっても、「架空の見えざるもの」と、「実相における見えざるもの」とは全く異なるのだ。見えるものと、見えざるものは別個のことではなく、事象として相即不離にあり、全一である。どちらか一方だけを追求していっても、本不生の実相を理解することはできないということである。
(注:ここで、繰り返しにはなるが、重要なことであるので、あらためて、ブッダにより、虚妄の法として斥けられているところを整理しておこう。
本不生は、外界に、先験より停滞なく、今の変動が経過し、全き新しき変動として、刻々に創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)し、相続される。これが空の実相であり、空の実相は、絶えず、いま、ここ、である。従って、現象も先験なるみえざる潜象も、絶えず、いま、ここであり、死後に渡る彼岸ばかりではなく、此岸と彼岸はたえずいまここに互換重合?入しつつ、現前している。
それを覚らないのは、虚妄の自分。自我に縛られたままの片寄った自分に固執しているからである。
本来のものは、時空外にある先験なる阿字本不生を源泉として、いま、ここに、絶えず新たなものとして現前しているものである。
この不生の仏心を自我に付け替えて、その自我で迷っている。その迷いがまた、森羅万象において破壊や苦悩をもたらしている。この迷妄なる自我の責任は大変重いのである。
故にこそ、五薀におけるさまざまな障害をふまえて、いま、ここに人類が実相を観察するならば、瞬時にその欺瞞性を了得し、自己変革を起こし、たちどころに地獄の闇は消失するのである。
また、取り返しの利かない重罪を犯してしまったものであっても、その犯した罪の事実と重さは決して免れ得ないが、それで、不生の仏心がなくなるわけではない。問題を起こした自我そのものが、いま、ここで、その罪を自覚し、罪のもとである自身の問題を自覚できるなら、その問題の根源を断ちきり、全く新たなものとして、本質的自覚の故に、自我に迷わされていないものとして、全く、新しく生まれ変わるのである。本不生なるがゆえにこそ、いま、ここで、新たなものとして自己変革を起こすのである。自我による見せかけの変貌とは全く異なる。
これが理趣経における般若波羅蜜多の真理趣といえるだろう。
様々な迷いが湧き起ころうとも、この『般若波羅蜜多の真理趣』である本不生に加持感応同交し、日々、刻々に体するならば、現生(いまここ)において、聖俗一如である。
迷いの雲(俗性)は晴れて、満月のごとき光り輝くものとしての仏心が耀きだすのである。
おお!。般若理趣の普賢金剛薩?「光り輝くもの」の究極の真髄、『清浄大楽(清らかなる慈愛の光に満ちた)』の阿字本不生を証得(了得)せよ!と般若理趣は響いているのである。
まずは、現実の生活の中における、あるがままの真実を直視しなければならない。事象の現実を離れた妄想の神々に逃避してはならない。あるべき理想と至らざる自我の現実の不毛の葛藤に、いまこそ、終止符を打ち、いまここに五蘊が目撃するその生の事実を通じて、生をあるがままに観察し、「真実の中に偽りを観じ、偽りの中に真実を観て、真実を真実と観じ、偽りを偽りと観じ」て、屈託のない心で、慈愛の喜びに溢れ、苦悩の生の中に、輝かしい自身の光を見いだしていかなければならない。
これが叡智を実践し、力強く生きる光り輝くもののありかたである。
時に、世尊遍照金剛(光り輝くもの)は、この阿字本不生を実現するために、自ら金剛手菩薩となって、その実践の道を示された。この金剛手菩薩こそは、一切如来の心、そして大乗仏教の真髄である金剛界大曼荼羅の世界を体得し、叡智をもって根本煩悩と対決し、清浄心をもって煩悩を滅し、本不生の宝を与えていく、偉大なる光り輝くもの(大日如来)である。この渾々と湧き出る大慈大悲が、すべてのものを慈しむ本源なのである。
まさに、金剛手菩薩は大慈大悲と、確固不動の生き方と、大菩提心と、大勇猛心(果敢に取り組む心)を以て刻々に生きる大楽金剛不空三昧耶の実相を示された。
条件付けられたあらゆる執着よ、せまい心よ、金剛不壊心によって打ち砕かれん。清浄なる真実よ、大安楽(大慈大悲)よ、不滅の実相よ、金剛不壊心(不生の仏心)によって開かれん。
【恩寵による大神変加持咒】
ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ
ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ
三、光り輝くものの「真如の法門」
『本不生の理趣なる光りに触れて』
三、光り輝くものの「真如の法門」
時に世尊毘盧遮那如来は大楽(大慈悲)遍照の徳である「光り輝くもの」として、真如の生き方を示された。それは、寂静にして分別を離れ、本不生のままに「一切法清浄の世界」を見開く般若波羅蜜多の刻々なる創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)の道であることを示された。
@真如は、金剛そのものである。何故ならば、本不生心は、誘惑にも迫害にも毀損つくことはない。その心は金剛のように堅固であって、あらゆるものを自身と観じて大誓願を貫く。
A真如は、滅びぬ珠玉(義)の本不生心そのものである。本不生心は、魂の奥に秘められた宝珠であり、この不滅の宝珠こそが「不生の仏心」となり、世界を宝土と化していく。
B真如は、現実の事象そのものの実相(法)にある。すなわち自然法爾(あるがまま)である。何故ならば、本不生心は明澄であり、事物の真相はあるがままだからである。
C真如は、自他一如のすべてのもののはたらき(一切業)そのものにある。何故ならば、本不生心のすべての働きは偉大な菩提心の働きであり、自他分別の断片的な狭猥な心を超えて、すべての生きとしいけるものの、そのままに、自ずから世界を浄化していく自浄作用であるからだ。
「不生の仏心」をもって全き完成を探求する求道者、金剛手よ。大楽(大慈悲)の世界を体し、「一切法清浄の世界」とともにあるならば、この真如である金剛と義と法と一切業の四種を成就する如来の生きざまとなるのだ。たとえ、汝が住む世界に煩悩の嵐が吹きすさぼうとも、また、底しれぬ不安と恐怖の闇黒に陥ろうとも、それらに怯むことなく、直面し、四種の徳そのものであるならば、必ずや、自他のすべての繋縛を解き放ち、全てのものが輝かしい自身の光りとなり、真如が速やかに顕われるであろう。
時に世尊毘盧遮那如来はこのようにお説きになられるとともに、真如は「すべてのものが成就する」ものであることを示され、大悲の心を胸に秘め、本不生を貫く智拳印を示し、すべての世界の究極の真理は、平等に具わる不生の仏心であることを説き示され、その真髄の刻々なる創命(本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造)である瓦アークの真言を響かせ給う。瓦
【恩寵による大神変加持咒】
ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ
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カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
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ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ
重要 【五相成身観】
釈尊に比定される「一切義成就という名の菩薩」が菩提道場で阿婆頗那伽(不動)三摩地に入っていたところに、どこからともなく「一切如来」が姿を現して菩薩を警覚し、難行を重ねる菩薩に対して、速やかに一切如来の真実を獲得する修行方法として、真言とともに月輪と金剛杵を用いた五段階からなる観想法を教示するのである。その結果、菩薩は一切如来に加持されて、自らに備わる如来性に目覚め、 一切如来と平等性となって「金剛界如来」として成道する。金剛界如来とは序分の毘盧遮那如来のことでありブッダ釈尊である。 そして金剛界如来は一切如来によって須弥山頂の金剛摩尼宝峯楼閣にある獅子座に加持されて住し、一切如来はその周囲に阿?等の四仏となって金剛界如来の会座を形成する。
四、光り輝くものの「釈迦牟尼仏の法門」
五、光り輝くものの「本不生の法門」
『本不生の理趣なる光りに触れて』
五、光り輝くものの「本不生の法門」
時に世尊は、「不生の仏心」を自覚させる自性清浄法性如来となり、明澄な心で、すべてのものを純粋(ありのまま)にとらえ、真実の姿を見、この世における深い真理を体現する刻々の新たな創命の道を示された。
欲望は、心を乱し、破滅に導くいまわしいものと退けなければならない。しかし、我欲の根底にある自我を凝視するならば、純粋な生命の本質に目覚める。
心が充たされぬことにより生ずる瞋も、充たされざる念いを凝視するならば、心は自ずと明澄になり、物事の本質を見極め、欺瞞性に打ち克つことができよう。
世間では、欲望に染まった心は自他に苦悩をもたらすがゆえに、厭い、棄て、その罪業を忌みきらうものである。
しかし、染汚の社会をあるがままに凝視し、その苦悩の本質を理解し、社会の混乱の原因を見据えることができれば、初めて、これらを浄化する働きを起こすもととなるのである。
世間では、せまい我見による自縄自縛に陥り、抜け出せずにいることが多い。
しかし、世界の本源はもとより浄穢の差別はなく、自我我欲の妄見に気づき、妄見が消えれば、本来の明澄な心で、新たな真実の世界を見開いてゆくのである。
世間における知識も、本不生からみれば、如何せん、概念に過ぎないから、虚妄でしかない。
五蘊に執着する自我では、実相を観ることができない。全く異なるのである。なぜなら、我見の虚妄、即ち、現象の片面に捕らわれていては、もう一面の実相である潜象の本質を観ることはできないからである。
妄見の偏りに気づかなければ、現象の本質は把握できない。常に新たな、見えざるものの本質である明澄な光り輝くものを観ることがないのである。
我見を離れ、すべての虚妄が止むとき、光り輝くもの、すなわち、本不生の般若波羅蜜多が顕れるのである。
ゆえに、般若波羅蜜多はすべての欺瞞性を見抜き、誤りを正していく清浄なる智恵にこそある。
常に「不生の仏心」の完成を願う求道者金剛手よ。明澄な心に導く刻々なる創命を体し、自己をあるがままに観察し、とらわれず、素直で清らかな心であるならば、たとえ貪欲にまとわりつかれ、瞋や愚痴にまみれた濁世の闇にあろうとも、それらに染まることはない。ただひたすら「不生の仏心」のままに、本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造の道を歩み、穢れた世界を浄化していく力となるのである。
あたかもあの蓮華の花が汚泥に染まらず美しい花を咲かせるように明澄な心で、逆境を超えていくのである。
観自在菩薩は、重ねてこの明澄なる本不生の大悲の心を胸に、いきとしいけるものを慈しまれる。
明澄な心で濁世の闇を照らし出し、真実の道を切り拓き、不生の仏心ただひとつでもって、かけがえのない唯一無二の人生を生きていけるようにと。 本不生の神泉より刻々に湧き出づる創造の本不生心、明澄な心よ、開かれよ、世界も自己も清浄となれよかし。
【恩寵による大神変加持咒】
ビルシャナブツ ビルシャナブツ ビルシャナブツ
ヴェカラー ゼエルゼ ヴェアマル
カドーシュ カドーシュ カドーシュ ヨッドヘー ヴォッドヘー ツェヴァオット
メロー ホル ハアレツ ケヴォドー
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー
ハラソーギャーテー ボージソワカ