
魂の遍路−萬歳楽山と不生の光り
山の奥にあるのではない。
天の彼方にあるのでもない。
それは、
彼の内側に、
そしてすべての人の内側に
静かに息づいている。
不生の光、
久遠の響き、
永遠のいのち。
萬歳楽山は、
その光を映し出す鏡であった。

(内なる山を登る ― 光の源泉への遍路)
目次
序文 光の門が開くとき
第一章 萬歳楽山とは何か ― 地球意識と魂の縦軸
〔詩韻〕 名の響き
〔叙説〕 不生(アミリタ)の浄土としての山
第二章 要石と龍 ― 地球のエネルギーの中心としての山
〔詩韻〕 沈黙の大盤石
〔叙説〕 龍・白蛇・鯰の象徴
地球意識と人類意識の連動
第三章 萬歳楽山の大伽藍 ― 見えざる寺院としての山
〔詩韻〕 光の伽藍
〔叙説〕 ボロブドゥールとの共鳴
カイラス山との縦軸
内なる曼荼羅としての伽藍
第四章 魂の遍路としての萬歳楽山
〔詩韻〕 山が魂を登らせる
〔叙説〕 魂の記憶
内なる山道
人類意識の変容としての遍路
終章 光り輝くもの ― 弥勒の時代へ
〔詩韻〕 内なる光
〔叙説〕 弥勒の時代とは
未来への灯火
あとがき 魂の原郷としての萬歳楽山
〔詩韻〕
山は、
呼ばれた者にしか
その姿を開かない。
風の音が止み、
心の奥に静けさが満ちるとき、
山はそっと扉を開く。
その扉は、
外の世界に向かって開くのではなく、
内なる世界へと続いている。
萬歳楽山は、
その扉のひとつであった。
〔叙説〕
この書は、
私が萬歳楽山に導かれ、
そこで見たもの、
感じたもの、
そして魂の奥で響いたものを
静かに綴った記録である。
萬歳楽山は、
単なる山ではない。
それは、
地球の深層と人類の意識が交差する
“霊的な門”であり、
魂の遍路の原郷であった。
山に登るたびに、
私は自分の内側にある
“光り輝くもの”を
少しずつ見いだしていった。
この書が、
あなた自身の内側にある
“光の源泉”を思い出す
小さなきっかけとなれば幸いである。
〔詩韻〕名の響き
萬歳楽――
その名には、
悠久・久遠・不生の響きがある。
風が止み、
閑かな心の奥に、
古の雅楽の調べがふと立ちのぼる。
静かに、しかし確かに、
その響きは彼の魂を震わせていた。
「萬歳」は永遠を、
「楽」は安らぎと平和の世界を示す。
その名の奥に潜むものは、
人の言葉を超えた御神楽、
“光の浄土”が奏でる響きであった。
〔叙説〕不生(アミリタ)の浄土としての山
萬歳楽山という名は、
一般には雅楽の曲名「萬歳楽」に由来するとされている。
しかし、彼がこの山に導かれる過程で感じ取ったのは、
単なる曲名を超えた、
霊妙なる名の響きであった。
古い伝承には、
中国に萬歳楽山という霊山があり、
その仙人が「日本にも同じ霊妙な山がある」と告げ、
薬草と薬石の宝庫として封印されたという話が残る。
学術的な裏付けはない。
しかし、彼が山に触れるたびに感じたのは、
この山の名は、太古の人々が
“響き”として聴き取った霊名ではないか、
という直観であった。
アミー
アミリタ
アミターバ
ミトラ
マイトレーヤ
マンダラ
マハーヴァイローチャナ
マンザイラク――
この音の流れは、
まるで古代の記憶が
言葉の形を変えながら
現代にも響いているかのようであった。
■ 萬歳楽山の名が示すもの
「萬歳」は久遠・不生・永遠を示す。
「楽」は浄土・平安・光の世界を示す。
つまり、
萬歳楽山とは
“不生(アミリタ)の浄土”
の象徴である。
彼が山に触れるたびに感じたのは、
この山が
? 胎蔵界の大日如来
? 金剛界の大日如来
? 紅玻璃色阿弥陀如来
? 未来を導く弥勒佛
これらの吉祥が重なり合う
新生創造の光の曼荼羅そのもの
であるということだった。
〔詩韻〕沈黙の大盤石
沈黙の大盤石。
その下には、
地球の深層を龍のごとくうねる力が
静かに息づいている。
龍は、
地球とともに呼吸し、
ともに目覚め、
ともに調えられている
地球の生命そのものである。
要石――
それは、
地球の痛みと人類の意識が
ひとつの点で交わる
“見えざる調御の御岩坐”
であろう。
〔叙説〕龍・白蛇・鯰の象徴
萬歳楽山には、
古くから「要石(かなめいし)」と呼ばれる大岩がある。
それは単なる巨石ではなく、
地球のエネルギーの要(かなめ)
として信仰されてきた。
江戸時代の錦絵には、
地震のたびに「萬歳楽、萬歳楽」と唱える人々の姿が描かれている。
しかし、
彼が萬歳楽山で感じたのは、
“押さえつける”という感覚ではなかった。
龍とは、
地球のマグマを含めた天地自然の
上昇・下降のエネルギー活動であり、
地球の生命力そのものである。
要石は、
地球のエネルギーを調整する
最も神聖な場であった。
■ 地球意識と人類意識の交差点
(地球意識と人類意識の連動)
地震、疫病、戦争、環境破壊――
これらは単純な因果では語れない。
しかし、
地球の痛みと人類の意識が
深いところで響き合っていることだけは、
否定できなかった。
東日本大震災のとき、
彼は深い問いに直面した。
なぜ、この地で――
なぜ、この時に――
という問いである。
しかし、災害に向き合う日本の人々、
そして世界の人々の姿を見て、
彼は次第に気づいていった。
これは罰ではなく、
苦しみを直視せざるをえずとも、
“生きようと”立ち上がる力の本源が
魂にはあるということなのだ。
生滅を超えてこの魂の遍路を歩む姿の尊さが、
まさしく人類の意識の変容の姿であったと。
苦しみを通して、
世界の問題を照らし出し、
人類が抱える原罪を自覚し、
新しい意識へと向かうための
深い呼びかけなのではないか と。
天変地異と人類の意識の問題は、
もはや一国の問題ではなく、
地球全体の問題であり、
すべての人の魂の遍路に関わる問い
である。
〔詩韻〕光の伽藍
山頂に立つと、風は止み、
雨も止み、音は消え、霧が晴れ、
ただ光だけが静かに満ちてきた。
その光の中から、
ひとつの伽藍がゆっくりと浮かび上がる。
おお、なんと清浄で、
なんと神々しい伽藍であろうか。
しかしそれは、
石でも木でもなく、
人の手によるものでもない。
光の層が幾重にも重なり、
呼吸し、脈動する
**生きた“見えざる大伽藍”**であった。
〔叙説〕ボロブドゥールとの共鳴
萬歳楽山の山頂に至ると、
彼はしばしば巨大な伽藍のビジョンに遭遇した。
そこに建築物があるわけではない。
しかし、魂の眼には確かに伽藍が立ち上がっていた。
それは、
光の層が曼荼羅のように広がり、
天へと伸びていく構造であった。
■ 見えざる伽藍の構造
彼が見た伽藍は、
人類の時代ごとの意識を象徴するかのように、
さまざまな寺院建築の形を成し、
幾重にも重なっていた。
中心には大日如来の光が静かに座し、
その周囲を八葉の蓮が取り囲むように
光の層が広がっていた。
胎蔵界と金剛界――
両界が不二となった
金胎両部の大伽藍
が、萬歳楽山の山頂に顕れていた。
■ ボロブドゥールとの共鳴
令和元年、
彼はボロブドゥール寺院の研究書に触れ、
魂が震撼した。
そこにあった構造は、
萬歳楽山で見た伽藍と驚くほど似ていた。
ボロブドゥールは、
釈尊が修行し、覚醒し、
遍照金剛となるプロセスを
石の建築として表している。
萬歳楽山の伽藍もまた、
光の層を登るにつれ形が消え、
最後には
“光り輝くもの”
となるプロセスであった。
■ カイラス山との縦軸
さらに後年、
彼はカイラス山の存在に触れ、
魂が震えた。
カイラス山は、
地球の造山運動が生んだ
“世界の中心(axis mundi)”である。
萬歳楽山の伽藍を見たとき、
彼が直感したものは、
このカイラス山と同じ
垂直軸(縦の光)
であった。
地球の中心から立ち上がる光の柱が、
萬歳楽山を通り、
ボロブドゥールを通り、
カイラス山へとつながっている。
■ 見えざる伽藍は、彼の内に建つ
(内なる曼荼羅としての伽藍)
伽藍は外に建つものではない。
それは魂が光に触れたときに立ち上がる
**“内なる曼荼羅”**である。
萬歳楽山は、
その曼荼羅を彼の内側に建てるための
霊的な設計図を示していた。
〔詩韻〕山が魂を登らせる
人が山を登るのではない。
山が魂を登らせるのだ。
呼ばれた者だけが、
その山の前に立つことを許される。
萬歳楽山は、
彼の外にある山ではなく、
魂の奥にある
**“原泉の山”**であった。
〔叙説〕魂の記憶
彼の魂の遍路は、
昭和51年の出来事から始まっていた。
不可思議な能力を持つ人物との邂逅により、
彼は魂の記憶の断片に触れた。
彼は自分の意識とは無関係に、
古代の意識がよみがえったかのように
「アポローン、アポローン」と叫んだ。
やがて彼は、
「メタトロン」や「ミカエル」の光を黙視した。
それは、
自我を超えた深層が
表層に触れた瞬間であった。
■ 山は、準備が整うまで扉を開かない
長い年月を経て、
彼はふたたび萬歳楽山に導かれる。
しかし山は、
はじめ彼を拒んだ。
山は、
外側の意志ではなく、
内側の成熟を見て扉を開く。
そしてある朝、
本堂に現れた龍が彼を受け入れたとき、
山は静かに扉を開いた。
■ 魂の遍路は、内側の旅である
(内なる山道)
萬歳楽山に登るたびに、
彼は気づいていった。
魂の遍路とは、
外の山を登ることではなく、
内側の山を登ることであると。
龍の顕現、
要石の沈黙、
光の柱、
見えざる伽藍――
これらはすべて、
彼の魂の深層にある
“原初の記憶”が
外の世界に投影されたものだった。
■ 地球意識と人類意識の連動
(人類意識の変容としての遍路)
地震、疫病、戦争、環境破壊――
これらは単純な因果では語れない。
しかし、
地球の痛みと人類の意識が
深いところで響き合っていることだけは、
否定できなかった。
東日本大震災のとき、
彼は深い問いに直面した。
なぜ、この地で――
なぜ、この時に――
という問いである。
しかし、災害に向き合う日本の人々、
そして世界の人々の姿を見て、
彼は次第に気づいていった。
これは罰ではなく、
苦しみを直視せざるをえずとも、
“生きようと”立ち上がる力の本源が
魂にはあるということなのだ。
生滅を超えてこの魂の遍路を歩む姿の尊さが、
まさしく人類の意識の変容の姿であったと。
苦しみを通して、
世界の問題を照らし出し、
人類が抱える原罪を自覚し、
新しい意識へと向かうための
深い呼びかけなのではないか と。
天変地異と人類の意識の問題は、
もはや一国の問題ではなく、
地球全体の問題であり、
すべての人の魂の遍路に関わる問い
である。
〔詩韻〕内なる光
光り輝くものは、
山の奥にあるのではない。
天の彼方にあるのでもない。
それは、
彼の内側に、
そしてすべての人の内側に
静かに息づいている。
不生の光、
久遠の響き、
永遠のいのち。
萬歳楽山は、
その光を映し出す鏡であった。
〔叙説〕弥勒の時代とは
萬歳楽山に顕現する“光り輝くもの”は、
単なる象徴ではなかった。
それは、
大日如来の光であり、
紅玻璃色阿弥陀の慈悲であり、
普賢金剛薩?の不生の仏心であり、
そして未来を導く弥勒佛の呼び声であった。
山頂で見た光の柱は、
地球の中心から立ち上がり、
人類の意識と連動していた。
■ 弥勒の時代とは、内側が変わるときである
弥勒の時代は未来のどこかにあるのではない。
人の内側が変わるとき――
すなわち、いま、ここ
に開かれる。
弥勒とは、
外から降りてくる存在ではなく、
内側から立ち上がる
**“光り輝くもの”**の象徴である。
■ 光り輝くものは、すべての人の内側にある
光り輝くものは、
特別な者だけが触れられる光ではない。
それは、
すべての人の内側にある
不生の仏心である。
萬歳楽山は、
その光を外の山として示すことで、
人々の内側にある光を
思い出させようとしている。
■ 現代文明の終わりと、新しい意識の始まり
地震、疫病、戦争、環境破壊――
これらは地球の痛みであり、
人類の意識のゆがみの表れであった。
しかし同時に、
それらは
新しい意識への転換点
でもあった。
■ 終わりではなく、始まり
(未来への灯火)
彼の遍路はここで終わらない。
むしろ、ここから始まる。
光り輝くものは、
彼の内側に灯り、
そしてあなたの内側にも
静かに灯るだろう。
萬歳楽山は、
その光を未来へと渡すために、
今日も静かに佇んでいる。
〔叙説〕
この書を最後まで読んでくださった方へ、
静かに感謝を申し上げたい。
萬歳楽山に導かれたのは、
私自身の意志ではなかった。
山は長い年月をかけて私を呼び、
そしてある朝、
ようやくその扉を開いてくれた。
山に登るたびに、
私は自分の内側にある
“光り輝くもの”を
少しずつ見いだしていった。
龍の顕現、
要石の沈黙、
光の柱、
見えざる伽藍――
それらはすべて、
外の出来事であると同時に、
内なる魂が静かに目覚めていく
ひとつの過程であった。
ここに登場する「彼」は、
「私」であり、
「あなた」であり、
万生万物のいのちである。
魂の遍路とは、
特別な者だけが歩む道ではない。
いのちあるものは、
ひとしく、自身の内側に
静かに息づく“山道”を歩む。
もし本書のどこかで、
あなたの心がふと揺れたなら、
それはあなた自身の内側にある
“光り輝くもの”が
そっと応えた証かもしれない。
萬歳楽山は、
私にとって魂の原郷であり、
地球意識と人類意識が交差する
ひとつの“門”であった。
その門は、
この書を手に取ったあなたの内側にも
静かに開かれている。
どうか、
あなた自身の内側にある源泉の光を、
静かに、
そして大切に
かみしめていただきたい。
この書が、
あなたの遍路の道の
小さな灯火となれば、
これほど嬉しいことはない。
最後に、
萬歳楽山に、
そしてこの歩みを支えてくださった
すべての存在に、
深く感謝を捧げる。
静かに頁を閉じるとき、
あなたの内側に
ひとつの光が
そっと灯っていますように。