
魂の遍路(光の道を)歩むあなたに
特別な行いをすることではありません。
光として生きるとは、
いのちの創発に身を委ねることです。
いま感じていることを
そのまま感じ、
いま見えている世界を
そのまま受け取り、
いま胸の奥で震えている願いを
そっと抱きしめる。
そのすべてが、
光として生きることです。
光は、
あなたの外にはありません。


人は、どこから来て、どこへ還るのか。
その問いは、古より風のように吹きわたり、
いまもなお、ひとりひとりの胸の奥で
静かに灯を求めている。
いのちは、ただ生まれ、ただ消えるものではない。
刻々と湧きいでる本不生の源より、
ひとつの光として立ちあがり、
また源へと帰ってゆく。
その歩みを、私はいつしか
「魂の遍路」と呼ぶようになった。
それは地図のない旅であり、
誰かの教えに従う道でもない。
ただ、いのちの奥底から響いてくる
微かな呼び声に耳を澄ませ、
その声に導かれて歩む、
ひとりひとり固有の道である。
理趣経の言葉は、
その遍路の途上で、
ときに風となり、
ときに灯となり、
ときに沈黙そのものとなって
私の胸を照らしてきた。
しかし、経典の解釈を超えたところで、
私は何度も、
“いのちそのものの声”に触れた。
それは、ボロブドゥールの石壁に刻まれた
ブッダの歩みのように、
また、カイラスの白き峰に立ちのぼる
沈黙の光のように、
言葉を超えて、
ただ、私の魂を震わせた。
この書は、
その震えを、
そのままのかたちで
言葉に映そうとする試みである。
学説でもなく、
教義でもなく、
ただ、いのちの源泉から湧きいでる
ひとすじの響きを
ひとりひとりの胸へ届けたい。
どうか、この書が
自身の“魂の遍路”の
最初の一歩となりますように。
**〔詩文〕
光は、外から降るのではない。
いのちの奥底で、
まだ名も持たぬ微かな灯が、
ふと、風に揺れるように
自らを照らしはじめる。
その瞬間、
世界は“外側”ではなくなり、
自心の胸の奥で
静かに息づくものとなる。
遍照金剛とは、
遠い仏の名ではない。
人が人として、
自らのいのちの光に
そっと気づいたときの
あの透明な震えのこと。
光り輝くものは、
いつも、
あなたの内側にある。**
**〔散文〕
1. 光は「外側」ではなく「内側」から立ち上がる**
私たちは、光を外から与えられるものだと思いがちです。
悟りも、救いも、智慧も、どこか遠くの高みにあるもののように感じてしまう。
しかし、魂の遍路を歩む中で、私は次第に気づきました。
光は、外から降りてくるのではなく、
いのちの奥底から静かに湧き上がるものだということに。
それは、特別な修行の果てに得られるものではありません。
むしろ、日常のささやかな瞬間に、
ふと胸の奥で灯る“微かな気づき”として現れます。
朝の光に心がほどけたとき
誰かの言葉が胸に沁みたとき
苦しみの底で、ふと静けさが訪れたとき
そのすべてが、
内側の光が自らを照らしはじめる瞬間です。
2. 遍照金剛とは「人間の本来の姿」である
密教は、遍照金剛を宇宙の中心に輝く大日如来として描きます。
しかし、私が魂の遍路の途上で感じたのは、
遍照金剛とは“遠い仏”ではなく、
人間が本来持っている光の象徴だということでした。
釈尊が悟りを開いたとき、
彼は超人になったのではありません。
むしろ、
人間としてのいのちが本来の透明さを取り戻したのです。
その透明さこそが、遍照金剛の光です。
3. 光に気づくとき、世界の見え方が変わる
内側の光に触れると、
世界は“対象”ではなくなります。
風は、私の内側を吹き抜けるものとなり
光は、私の心を照らすものとなり
他者の言葉は、私の魂に触れる響きとなる
世界は外側にあるのではなく、
**私の内側で立ち上がる“ひとつの現れ”**となるのです。
この視座に立つと、
人生の出来事は“問題”ではなく、
魂の遍路の道標として見えてきます。
4. 光り輝くものとしての自己に還る
遍照金剛とは、
「特別な存在」ではありません。
それは、
誰もが本来持っている光の呼び名です。
自己否定がほどけ
欺瞞が消え
比較が静まり
いのちがそのままの姿で立ち上がる
そのとき、
人は自然に“光り輝くもの”となります。
これは、宗教的な理想ではなく、
人間の本質そのものです。
**〔章末の詩文〕
光は、
あなたの外にはない。
あなたが、
あなた自身のいのちを
そっと抱きしめたとき、
その胸の奥で、
静かに灯りはじめる。
その灯こそが、
遍照金剛の光である。**
〔詩文〕
迷いは、闇ではない。
闇のように見えるだけで、
その奥には、
まだ名を持たぬ光が
ひそやかに息づいている。
苦しみは、罰ではない。
いのちが、
自らの深みに触れようとして
震えているだけのこと。
影は、光の対極ではない。
光が形を得るために
この世に落とした
ひとつの輪郭にすぎない。
あなたが影を恐れぬとき、
影はそのまま
光への入口となる。
迷いのただ中で、
ふと胸の奥に
静かな温かさが灯るなら、
それは、
本来のあなたが
そっと息を吹き返した証。
影の奥には、
いつも光がある。
〔散文〕
1. 迷いは“誤り”ではなく、魂が深まるための入口
私たちは、迷いや不安、葛藤を「悪いもの」として避けようとします。
しかし、魂の遍路を歩む中で私は気づきました。
迷いとは、魂が深みに触れようとするときに生じる“揺らぎ”であると。
迷いがあるということは、
いのちが停滞していない証です。
むしろ、迷いは“魂が動いている”という徴です。
迷いを否定するのではなく、
その揺らぎの奥にある“静かな呼び声”に耳を澄ませるとき、
影は光へと変わりはじめます。
2. 影は、光の欠如ではなく、光の形である
影は、光がなければ生まれません。
つまり、影とは光の対極ではなく、
**光がこの世界に姿を現すための“輪郭”**です。
怒りも、悲しみも、嫉妬も、
私たちが“影”と呼ぶものは、
すべて光の変奏にすぎません。
影を嫌って押し込めると、
光もまた閉ざされてしまう。
影をそのまま抱きしめると、
光は自然に立ち上がります。
3. 苦しみの底にある“静かな温かさ”
苦しみのただ中にいるとき、
私たちは世界が閉ざされたように感じます。
しかし、深い苦しみの底には、
必ず“静かな温かさ”が潜んでいます。
それは、
本来のいのちが、
あなたを見捨てずに
そっと寄り添っている証です。
私は枕経の場で、
何度もその温かさに触れました。
死の間際にある人の胸の奥に、
言葉にならない光がふっと立ち上がる瞬間を
何度も目撃しました。
その光は、
生と死を超えた“本不生のいのち”の証です。
4. 影を恐れぬとき、魂は深くなる
影を避ける人生は、
安全かもしれませんが、
魂は深まりません。
影を恐れず、
影の奥にある光を見つめるとき、
魂は静かに成熟していきます。
迷いは、深さの入口
悲しみは、愛の証
怒りは、真実への渇望
孤独は、魂が自分に還ろうとする動き
影を抱きしめるとは、
これらを“否定せずに見つめる”ということです。
そのとき、
影は光へと変わり、
魂は本来の輝きを取り戻します。
5. 影の奥にある光に気づくために
影を光へと転ずるために、
特別な修行は必要ありません。
必要なのは、
自分の心の動きを、
批判せずに、ただ静かに見つめることです。
いま、何を感じているのか
その感情はどこから来たのか
その奥に、どんな願いがあるのか
こうして心を見つめると、
影の奥にある“光の源泉”が
静かに姿を現します。
〔章末の詩文〕
影を恐れぬとき、
影はそのまま
光への道となる。
迷いの奥で、
あなたの魂は
静かに息をしている。
その息づかいこそが、
本来の光の
最初の響き。
影の奥には、
いつも光がある。
〔詩文〕
心は、
濁るからこそ、
澄むことを知る。
欺きは、
他者に向けられたものではなく、
いつも、
自分自身に向けられている。
けれど、
その欺きがふとほどける瞬間がある。
沈黙の底で、
ひとすじの風が
胸を吹き抜けるようなとき。
その風は、
あなたを責めるために吹くのではない。
あなたを
本来の場所へ還すために吹く。
心が透明になるとは、
何も持たず、
何も飾らず、
ただ、
いのちの声に
耳を澄ませること。
そのとき、
あなたは初めて
“自分”という名の
深い井戸の水面を見る。
そこに映るものは、
過去でもなく、
未来でもなく、
ただ、
いま、
ここにある
光そのもの。
〔散文〕
1. 自己欺瞞は“弱さ”ではなく、“深まりの前触れ”である
人は誰しも、自分を守るために小さな嘘をつきます。
「大丈夫だ」と言い聞かせたり、
「本当はこうしたかった」と言い訳をしたり、
「自分は間違っていない」と固く信じ込んだり。
しかし、魂の遍路を歩む中で私は気づきました。
自己欺瞞とは、弱さではなく、
魂が深まる前に必ず通る“狭い門”のようなものだと。
欺瞞があるということは、
心がまだ自分を守ろうとしている証です。
それは悪いことではありません。
むしろ、心が壊れないように働く自然な防衛です。
しかし、その防衛がふと緩む瞬間があります。
その瞬間こそ、魂が深みに触れようとしている徴です。
2. 心が透明になるとは、何かを“捨てる”ことではない
透明さとは、
何かを手放すことでも、
欲望を抑えることでも、
感情を消すことでもありません。
透明さとは、
心が自分自身をそのまま見つめる力です。
喜びを喜びとして
悲しみを悲しみとして
怒りを怒りとして
孤独を孤独として
そのまま見つめるとき、
心は自然に澄んでいきます。
透明さとは、
“無色”になることではなく、
本来の色がそのまま輝き出すことなのです。
3. 透明な心は、世界をそのまま映す鏡となる
心が透明になると、
世界の見え方が変わります。
他者の言葉の奥にある“願い”が見え
出来事の裏にある“意味”が浮かび
苦しみの底にある“温かさ”が感じられ
自分の影の奥にある“光”が見えてくる
透明な心は、
世界を歪めずに映す鏡です。
その鏡に映るものは、
外側の世界ではなく、
あなた自身の魂の姿です。
4. 透明さは、魂が“本来の自己”へ還る道
心が透明になると、
人は自然に“本来の自己”へ還っていきます。
本来の自己とは、
理想の自分でも、
宗教的な完成形でもなく、
いのちが本来持っている静かな輝きです。
その輝きは、
努力して得るものではなく、
ただ、
心の濁りが静かに沈んだとき、
水底からふっと立ち上がる光のように現れます。
5. 心が透明になるために必要なのは、ただ“見る”こと
心を透明にするために、
特別な修行は必要ありません。
必要なのは、
自分の心を、批判せずに、ただ見ることです。
いま、何を感じているのか
その感情はどこから来たのか
その奥に、どんな願いがあるのか
ただ見つめるだけで、
心は自然に澄んでいきます。
透明さとは、
“努力の結果”ではなく、
気づきの副産物なのです。
〔章末の詩文〕
心が澄むとき、
世界は
あなたの内側から
そっと姿を現す。
透明な心は、
光を求めるのではなく、
光そのものとなる。
そのとき、
あなたは気づく。
本来のあなたは、
ずっとここにいたのだと。
〔詩文〕
世界は、
外に広がる景色ではない。
あなたの胸の奥で
そっと息づく
ひとつの光の広がり。
風が吹くとき、
吹いているのは
外の空気ではなく、
あなたの魂の奥に
触れようとする
見えざる手。
光が差すとき、
照らされているのは
大地ではなく、
あなたの心の
まだ開かれていない場所。
世界は、
あなたの外側にはない。
世界は、
あなたの内側から
立ち上がる。
そのことに気づくとき、
あなたは初めて
世界とひとつになる。
そしてその瞬間、
あなたは知る。
世界があなたを照らしていたのではなく、
あなたが世界を
照らしていたのだと。
〔散文〕
1. 世界は“外側”ではなく、心の深みに呼応して現れる
私たちは、世界を「外側にあるもの」として見ています。
しかし、心が透明になってくると、
世界は外から迫ってくるものではなく、
**心の深みに呼応して立ち現れる“ひとつの現象”**であることが見えてきます。
風の音も、
光の揺らぎも、
人の言葉も、
すべては“外側の出来事”ではなく、
心の湖面に触れてくる波紋のようなものです。
世界は、
あなたの心が開くとき、
そこに姿を現します。
2. 世界はあなたを照らすのではなく、あなたが世界を照らしている
心が透明になると、
世界の見え方が変わります。
風は、あなたの内側を吹き抜けるものとなり
光は、あなたの心の奥を照らすものとなり
他者の言葉は、あなたの魂に触れる響きとなる
このとき、
世界は“外側の対象”ではなく、
あなたの内側の光が映し出す鏡となります。
世界があなたを照らしているのではありません。
あなたの光が世界を照らしているのです。
3. 世界と自己の境界がほどける瞬間
世界と自己の境界がほどけるとき、
人は深い静けさに包まれます。
それは、
「世界と一体になる」という劇的な体験ではなく、
むしろ、
“世界が自分の呼吸と同じリズムで動いている”
と感じられるような、
ごく自然な透明さです。
この透明さは、
努力して得るものではなく、
心が澄んだときに自然に訪れます。
4. 世界はあなたの“魂の状態”を映す鏡である
世界は、
あなたの心の状態をそのまま映します。
心が曇れば、世界は重く見え
心が澄めば、世界は柔らかく見え
心が開けば、世界は光に満ちて見える
世界は変わっていません。
変わっているのは、
世界を映すあなたの心の透明度です。
この視座に立つと、
人生の出来事は“問題”ではなく、
魂の遍路を深めるための鏡として見えてきます。
5. 世界とひとつになるために必要なのは、ただ“感じる”こと
世界とひとつになるために、
特別な修行は必要ありません。
必要なのは、
世界を“外側の対象”としてではなく、
内側の響きとして感じることです。
風に触れる
光を見る
人の声を聴く
自分の心の動きを感じる
そのすべてが、
世界とあなたをつなぐ“ひとつの呼吸”です。
〔章末の詩文〕
世界は、
あなたの外にはない。
世界は、
あなたの心が
静かに開くとき、
そこに立ち現れる。
そのとき、
あなたは知る。
世界とあなたは
もともと
ひとつであったのだと。
〔詩文〕
いのちは、
生まれたのではない。
ただ、
この世界に
そっと姿を現しただけ。
あなたが
「わたし」と呼んでいるものは、
ひとつの形にすぎず、
その奥には、
形を持たぬ光が
静かに息づいている。
その光は、
誰かに与えられたものではなく、
誰かと比べられるものでもなく、
ただ、
本不生の源泉から
刻々と湧きいでる
唯一無二の響き。
いのちの尊厳とは、
その響きに
そっと耳を澄ませること。
あなたが
自分のいのちを
そのまま抱きしめるとき、
世界は
あなたの光で
満たされてゆく。
いのちは、
あなたを通して
いまもなお
創発しつづけている。
〔散文〕
1. 本不生とは「いのちが絶えず創発しつづける」という事実
本不生という言葉は、
「生まれない」「滅しない」という哲学的概念として理解されがちです。
しかし、魂の遍路を歩む中で私が感じた本不生は、
もっと生々しく、もっと温かく、もっと“いま”に満ちたものです。
いのちは、どこかで生まれたのではなく、
いまこの瞬間も、源泉から湧きいでつづけている。
その創発の流れの中に、
私たちは“ひとつの現れ”として立ち上がっています。
だからこそ、
いのちは誰とも比べられず、
誰かの評価によって価値が変わるものでもありません。
2. いのちの尊厳は「特別さ」ではなく「唯一性」に宿る
尊厳とは、
特別であることではありません。
尊厳とは、
唯一無二であることです。
あなたの呼吸
あなたの涙
あなたの影
あなたの光
あなたの歩んできた遍路
そのすべてが、
他の誰とも交換できない“いのちの証”です。
尊厳とは、
その証を否定せず、
そのまま受け取ることです。
3. 自己否定は「いのちの声」を聞き取れなくする
現代の無明の根は、
自己否定にあります。
「自分はまだ足りない」
「もっと良くならなければ」
「誰かに認められなければ」
こうした思いは、
いのちの創発をせき止め、
魂の声をかき消してしまいます。
しかし、
自己否定が消えるとき、
いのちは自然にその本来の輝きを取り戻します。
いのちは、否定されるために生まれてきたのではなく、
ただ“そのまま”で輝くために現れている。
4. 本不生のいのちを生きるとは「いま」を生きること
本不生のいのちを生きるとは、
過去に囚われず、
未来に焦らず、
ただ“いま”の創発に身を委ねることです。
いま、感じていること
いま、見えている世界
いま、胸の奥で震えている願い
そのすべてが、
本不生の源泉から湧きいでる“いのちの現れ”です。
いまを生きるとは、
いのちの創発に寄り添うことです。
5. いのちの尊厳に気づくと、世界の見え方が変わる
いのちの尊厳に気づくと、
世界は“問題の集合体”ではなく、
いのちが響き合う場として見えてきます。
他者の痛みは、いのちの震え
自分の影は、光の輪郭
出会いは、魂の呼応
別れは、いのちの循環
世界は、
あなたのいのちが深まるほど、
その深さを映し返してくれます。
〔章末の詩文〕
いのちは、
あなたを通して
世界を照らしている。
その光は、
あなたが
自分の尊厳に気づくとき、
静かに満ちてゆく。
本不生のいのちは、
いまもなお
あなたの胸の奥で
創発しつづけている。
〔詩文〕
いのちは、
どこから来て、
どこへ還るのか。
その問いは、
古の時代から
人の胸を
そっと叩きつづけてきた。
生まれたように見えて、
ほんとうは
生まれていない。
消えたように見えて、
ほんとうは
消えていない。
いのちは、
ただ、
形を変え、
名を変え、
姿を変えながら、
源泉へと
静かに還ってゆく。
その源泉は、
遠い天の彼方ではなく、
あなたの胸の奥に
ひっそりと息づいている。
いのちは、
外から与えられたものではない。
あなたの内側から
絶えず湧きいでる
ひとつの光。
その光に
そっと触れるとき、
あなたは初めて
“還るべき場所”を思い出す。
いのちは、
どこからも来ず、
どこへも行かない。
ただ、
源泉から湧き、
源泉へと還る
永遠の流れ。
その流れの
ひとしずくとして、
あなたはいま
ここにいる。
〔散文〕
1. いのちは「始まり」も「終わり」も持たない
私たちは、
生まれることを“始まり”と呼び、
死ぬことを“終わり”と呼びます。
しかし、魂の遍路を歩む中で私は気づきました。
いのちには、始まりも終わりもない。
ただ、形が現れ、形が消えるだけである。
生まれたように見えるのは、
いのちが“形”を得た瞬間であり、
死んだように見えるのは、
その形が役目を終えた瞬間です。
いのちは、
その前も、その後も、
静かに流れつづけています。
2. いのちは「外から与えられたもの」ではない
私たちは、
いのちを“授かったもの”と考えがちです。
しかし、
いのちは誰かに与えられたものではありません。
いのちは、あなたの内側から
刻々と湧きいでる“創発”そのものです。
その創発は、
あなたが眠っているときも、
苦しんでいるときも、
迷っているときも、
絶えず続いています。
いのちは、
あなたを見捨てることがありません。
3. 枕経の場で見えた“いのちの帰還”
私はこれまで、
多くの方の最期に立ち会ってきました。
その場で何度も目撃したのは、
いのちが静かに源泉へと還ってゆく瞬間でした。
肉体の呼吸が止まるとき、
胸の奥からふっと立ち上がる
言葉にならない光。
それは、
消える光ではなく、
帰ってゆく光でした。
その光を見たとき、
私は確信しました。
いのちは、終わらない。
いのちは、還るだけである。
4. いのちの源泉は「遠い場所」ではなく、内側にある
多くの人は、
いのちの源泉を“外側”に求めます。
天の彼方、
神々の世界、
宇宙の中心。
しかし、
魂の遍路を歩む中で私は気づきました。
いのちの源泉は、
あなたの胸の奥にある。
静かに座り、
心を澄ませるとき、
胸の奥でふっと温かさが灯る瞬間があります。
その温かさこそ、
源泉の気配です。
5. いのちの源泉へ還るとは「本来の自己に戻る」こと
いのちの源泉へ還るとは、
死後の世界へ行くことではありません。
それは、
本来の自己へと戻ることです。
比較を手放し
欺瞞を脱ぎ捨て
影を抱きしめ
光に気づき
世界とひとつになり
そのすべてが、
源泉へ還るための道です。
還るとは、
“戻る”ことではなく、
思い出すことです。
あなたが本来、
どこから来て、
どこへ還るのかを。
〔章末の詩文〕
いのちは、
あなたを離れたことがない。
あなたが
自分の内側に
そっと耳を澄ませるとき、
源泉の光は
静かに
息を吹き返す。
いのちは、
還るべき場所を
忘れていない。
忘れているのは、
ただ、
あなたのほうだけ。
源泉は、
いつも
あなたを待っている。
〔詩文〕
あなたは、
ひとりで歩いているように見えて、
ほんとうは
ひとりではない。
風が吹けば、
その風は
あなたの歩みに寄り添い、
光が差せば、
その光は
あなたの影を
そっと抱きしめる。
鳥の声も、
人の言葉も、
沈黙の深さも、
すべては
あなたの魂に触れようとして
この世界に現れている。
いのちは、
あなたの内側だけに
宿っているのではない。
いのちは、
すべての存在の奥で
ひとつの響きとして
脈打っている。
あなたが
自分のいのちを
深く感じるとき、
世界のいのちもまた
あなたを通して
息づきはじめる。
魂の遍路とは、
ひとりの旅でありながら、
すべてのいのちと
響き合う旅。
その響きの中で、
あなたは初めて
“生きている”という
深い実感に触れる。
いのちは、
あなたを通して
世界と語り合っている。
〔散文〕
1. 魂の遍路は「孤独な旅」ではない
魂の遍路を歩むとき、
人はしばしば深い孤独を感じます。
自分だけが迷っているように思えたり
他者に理解されないと感じたり
世界から切り離されたように思えたり
しかし、魂の遍路が深まるほど、
その孤独は静かに形を変えていきます。
孤独とは、世界とつながるための“入口”である。
孤独を恐れずに歩むとき、
その奥に、
世界のすべてのいのちと響き合う静かな場が現れます。
2. 世界は、あなたの魂に呼応している
魂が深まると、
世界の見え方が変わります。
風はただの風ではなく、
あなたの心に触れる“呼びかけ”となり
光はただの光ではなく、
あなたの影を抱きしめる“慈愛”となり
他者の言葉は、
あなたの魂に触れる“響き”となる
世界は、
あなたの魂の状態に呼応して
その姿を変えていきます。
これは比喩ではありません。
魂の遍路を歩む者にとっては、
ごく自然な体験です。
3. すべてのいのちは、ひとつの源泉から湧きいでている
いのちは、
個別に存在しているように見えます。
しかし、
魂の遍路が深まると、
その個別性の奥にある
**“ひとつの源泉”**が見えてきます。
人間のいのち
動物のいのち
木々のいのち
風のいのち
光のいのち
そのすべてが、
本不生の源泉から湧きいでる
ひとつの流れです。
あなたが自分のいのちを深く感じるとき、
その流れ全体が
あなたを通して息づきはじめます。
4. 他者の痛みは、あなたの魂の深さを映す鏡
魂の遍路が深まると、
他者の痛みが
自分の胸の奥に響くようになります。
それは、
あなたが弱くなったのではなく、
あなたの魂が深くなった証です。
他者の痛みを感じるとは、
その人のいのちと
あなたのいのちが
源泉でつながっているからです。
痛みを避けるのではなく、
その痛みの奥にある“願い”に触れるとき、
魂はさらに深まります。
5. 魂の遍路は、世界とともに歩む道
魂の遍路は、
ひとりで歩むように見えて、
実は世界とともに歩む道です。
風があなたを導き
光があなたを照らし
他者があなたを映し
世界があなたを抱きしめる
魂の遍路とは、
世界とあなたが
ひとつのいのちとして
歩む道です。
その道を歩むとき、
あなたは初めて
“生きている”という深い実感に触れます。
〔章末の詩文〕
あなたは、
ひとりで歩いているのではない。
世界のすべてのいのちが、
あなたの歩みに
そっと寄り添っている。
魂の遍路とは、
世界とともに歩む道。
その道の上で、
あなたは初めて
自分という光の
ほんとうの姿を知る。
〔詩文〕
いのちは、
光から生まれ、
光へと還ってゆく。
あなたが
長い遍路の果てに
ふと立ち止まるとき、
胸の奥で
ひとすじの光が
そっと息を吹き返す。
その光は、
あなたのものではなく、
世界のものでもなく、
ただ、
いのちそのものの
原初の響き。
あなたが
自分の影を抱きしめ、
透明さを取り戻し、
世界とひとつになり、
源泉へと還るとき、
光は、
あなたの内側で
静かに満ちてゆく。
光へ還るとは、
どこか遠い場所へ
旅立つことではない。
光へ還るとは、
あなたが
あなた自身の
本来の姿に
そっと戻ること。
そしてそのとき、
あなたは知る。
光は、
あなたの外にはなく、
あなたの内側で
永遠に
輝きつづけていたのだと。
〔散文〕
1. 光へ還るとは「本来の自己に戻る」ことである
光へ還るというと、
どこか遠い霊的世界へ旅立つように聞こえるかもしれません。
しかし、魂の遍路を歩む中で私が感じたのは、
光へ還るとは、
自分の本来の姿に戻ること
だということでした。
本来の姿とは、
理想の自分でも、
宗教的な完成形でもなく、
いのちがそのまま輝いている状態です。
光へ還るとは、
“なくなるという”ことではなく、
“新しくうまれる”ことなのです。
2. 光は、あなたの外側にはない
多くの人は、
光を外側に求めます。
教義の中に
師の言葉の中に
聖地の風景の中に
奇跡の体験の中に
しかし、
魂の遍路が深まるほど、
光は外側ではなく、
内側にある
という事実が静かに立ち上がってきます。
光は、
あなたの胸の奥で
ずっと息づいていました。
ただ、
あなたがその光に
気づいていなかっただけです。
3. 光として生きるとは「いのちの創発に身を委ねる」こと
光として生きるとは、
特別な行いをすることではありません。
光として生きるとは、
いのちの創発に身を委ねることです。
いま感じていることを
そのまま感じ
いま見えている世界を
そのまま受け取り
いま胸の奥で震えている願いを
そっと抱きしめる
そのすべてが、
光として生きることです。
光は、
努力して得るものではなく、
委ねるときに現れるものです。
4. 光は、あなたを通して世界へ広がる
光は、
あなたの内側だけに留まりません。
あなたが光に気づくとき、
その光は自然に世界へ広がっていきます。
あなたの言葉が
誰かの心を照らし
あなたの沈黙が
誰かの痛みを包み
あなたの存在が
誰かの影を温める
光は、
あなたを通して
世界へと流れ出します。
光として生きるとは、
世界の唯一無二の光のとして
呼吸することです。
5. 光へ還るとは「いのちの全体性に目覚める」こと
光へ還るとは、
個としての自分を超えて、
いのちの全体性に目覚めることです。
あなたのいのち
他者のいのち
世界のいのち
宇宙のいのち
そのすべてが、
ひとつの源泉から湧きいでる
ひとつの光です。
光へ還るとは、
その全体性に気づき、
その全体性の中で
自分を生きることです。
〔章末の詩文〕
光は、
あなたの外にはない。
光は、
あなたの胸の奥で
静かに息づいている。
あなたが
その光に気づくとき、
あなたは
光へ還り、
光として生き、
光そのものとなる。
魂の遍路の果てに
待っているのは、
死後の世界ではなく、
あなた自身が目覚める新たな
永遠の光。
いのちは、
どこから来て、
どこへ還るのか。
その問いに
答えを求める必要はない。
あなたが
自分のいのちを
そっと抱きしめるとき、
答えは
胸の奥で
静かに息づきはじめる。
魂の遍路とは、
遠い旅ではなく、
あなたの内側で
いまも続いている
ひとつの光の道。
どうか、
その光を
忘れないでほしい。
あなたの歩みは、
あなたが思う以上に
世界を照らしている。